むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

2019-01-01から1ヶ月間の記事一覧

暗がりに差す人すじの光。 進むべき方向がわかる。 光のはたらき、方向がわかれば、 安心してそちらへ進めばいい。 必ず出られる。 南無阿弥陀佛

信の純化と柔軟心の成就

他者を批判し、批評するのは簡単だ。 自分が問題にならず、外ばかり見ている。 しゃべらないのではない。 ただ黙っているのだ。 結果を出せば凡夫は黙る。 結果は待っていてはいつまでも来ない。 結果は準備、動きの果てに成就するものだと信じる。 自分が当…

念佛に極まる

念佛は大悲の相。 相に如来の心も行もこもっている。 もはや自分の心や有様に囚われず、 ただ、わが名を称えよの仰せ、助けずば おかないの仰せを聞き念佛を申す。 この選択本願念佛の一行をたもつ。 念佛から一切の行が溢れてくるが、 一切はわが力で行ずる…

念佛を申す

先生はいつも仰る。 今ここで念佛を申し、耳に聞く。 親鸞聖人、法然聖人は専修念佛、常念佛の お方であった。現在の浄土真宗では、 選択本願念佛を専ら行ずる、 無量寿佛の御名をたもつ、念佛行を軽んじて いる。今ここで口に声に出て下さる お念佛を聞く。…

念佛すべし

いつでもどこでも誰でも。 如来は常に仰っている。 わが名を称えよ。必ず往生させる。 故に迷えばいつでも仰せに帰る。 仰せはわれらの原点であり、帰着点である。 原点があるからまた戻れる。離れても また帰ればいい。 南無阿弥陀佛

南無阿弥陀佛

お念佛が今ここに至り届き聞こえて下さる。 ただそれだけで満足だ。わが心身の 有り様に微塵の用事なし。 南無阿弥陀佛

迷い続けている

この世で悟りを開くことはない。 煩悩具足の身であるが故に、と 親鸞聖人は仰っている。とても悲しい。 ただし一つの道まします。念佛往生の道と 名づく。煩悩がなくなることはない。 因はすでに具足す。縁は刺激、遭遇。 果は必然して催される。苦悩する。 …

念佛往生のすがた

往生とは実践、生活であり、相続である。 一念の信を生活を通じ、体当たりを通して、 繰り返し巻き返し何度も何度も確かめさせて 下さるのが、念佛往生である。 体当たりとは、目の前の現実を凝視し、 ことばを和らげ、忍耐をたもつ、 悪口を肚におさめるこ…

唯信仏語決定依行

親鸞聖人、愚禿鈔にいわく (西本願寺真宗聖典p522-523) 第五には、 唯仏語を信じ決定して行による、と。 第五の唯信仏語について、三遣、三随順、 三是名あり。 掘り下げて確かめる。 親鸞聖人は結局何を伝えて下さったのか? 唯仏語を信じ決定して行によ…

結果は過程を経る

結果を出さなければならない。 ごもっとも。 しかし、こうも思う。 過程を経ない結果はありえない。 時間をかけずに、如何に儲けるか。 こういう価値観が大半を占めている。 たとえ短期間で結果は出なくても、 何度転んでも、立ち上がり続け、 這いつくばっ…

本願ぼこりについて

浄土真宗における信心とは、 二種深信である。 機の深信、法の深信。 自身、わたくしは決してタスカラヌ存在で あり、ずっと流転し続けてきたし、今も 娑婆に縛られている。悪業を根本的に 止める力が欠如していると知らしめられる。 善導大師のお言葉は、こ…

生きた佛法

佛法とは生きたおはたらきである。 それは言葉だけで理解するものではなく、 現実を通し、身を通し、体解(たいげ) すべきものである。 お寺、僧侶を経済的価値観で計っては ならない。経済的価値観は、 必ず我が身にふりかかる。必然的に。 因果応報、自業…

聞法のはじめ

今年最初の聞法のご縁だった。 まず誓願ありき、誓いの御名ありき。 専修念佛。まずお念佛を申し、耳に聞く。 聞名をたもつ。 称えやすくたもち易い形にまで仕上げた 念佛を聞く。 形なき大悲が敢えて形をあらわしたのが 一声の念佛なるぞ。 善知識の仰せ、…

往生わが分限にあらず、如来の分限なり

いくら頑張っても人間には分限がある。 なんぼ考えてもわからない領域がある。 念佛の信心起こるは ひとえに法蔵菩薩の願心に依る。 念佛往生をたもち、果たし遂げるは ひとえに弥陀の住持に依る。 わが名を称えよの仰せに従い、念佛を申し、 聞くのがわが分…

寛容さを培いたい

自分と違う価値観を認めてあげよう。 いつの間にか同一、 均一でなければ許されないような状況に なっていて、とても窮屈で息苦しい。 常識、定説。慣習。はみ出したり、 遅かったり、違っていたりしてもいいじゃないか。 人知れず、存在を保つのは疲れるん…