むなしさとともに

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不安のまま助けられるより道有ること無し

年末ですね。

 

今年は長かった気がしますが、とはいえ、あっという間に終わったような気もします。

 

人間は本当に有限な存在なのだなと知らしめられる日々です。

 

思考的にも能力的にも散々たる有様です。

 

思考的とは、自分を起点にしてしか、モノを考えることができないということです。

 

能力的にとは、確かに力は尽くしているのだけれど、過失や不備は避けられないし、できないことは山ほどあるし、老病死を避けられないのです。

 

死因は◯◯です、と世間ではいいますが、全ての死因は(その存在が生まれたから、または生まれるから)です。

 

生老病死は道理であり、生物である以上避けられないし、生老病死は無常の一つでしょうから、無常は万物にはたらく法則といえるでしょう。

 

二世紀の間さえ生きられる人間は一人も居ないのであります。

 

こういうことを考える、または将来のこと、悪果が自分を襲う懸念を思うと、不安しかありません。

 

不安は暴れるものです。外物を、他者を掴もう、握ろう、そして、安定したいと思慮します。

 

不安を起点にした悪い妄想は心を掻き乱します。落ち着かないのです。

 

物事は縁起に依って生起し、縁起が終わることによって終息していく。

 

妄想も因縁に依って起こるが、妄想は所詮妄想であり、それが起こるかもしれないが、起こるか起こらないかは因縁に依るので、妄想は因縁には影響を及ぼし得ない。

 

道理はそうなのでしょうが、凡愚たる自分には本当の意味で腑に落ちません。

 

鬼は外福は内。

 

これが正直な心根です、残念なことですが、不幸の到来は受け止められないのであります。

 

ここに声が聞こえます。

 

ソノママナリデタスケル、カナラズナンジヲワガクニヘオウジョウサセル、ナニガアッテモオマエヲカナラズホトケニスルと。

 

自分はこの声なかりせば、生きていくことはできません。

 

この声が燈火であり、唯一の憑みであります。

 

この声とは何か、即ち、南無阿弥陀佛であり、念佛であります。

 

この念佛は揺るぎ無き不動なる大悲心を起点にし、今ここに居る不安の塊である凡愚の我身にはたらいて下さる慈悲の結晶であります。

 

今となっては、このままなりで南無阿弥陀佛に助けられるより外に道がありません。

 

自分には、もう道が無いのであります。何も残されておらず、尽き果ててしまっています。

 

有ること無しという言葉が適当な表現です。有ることが無いのであります。

 

不安のまま、煩悩具足のまま、凡愚のまま、愚人のまま、南無阿弥陀佛の仰せに従い、念佛申し、この一声を聞く以外に道有ること無しです。

 

如来回向の信、如来回向の念佛、即ち、南無阿弥陀佛に助けられて必ず浄土に往生せしめられていくのが、真宗の大悲の教えであろうと思うことです。

 

一ヶ月に一度の更新頻度ですが、自分の聞法は続いていきますので、もし良ければ引き続きお付き合い頂ければと思います。

 

本年も有り難うございました。

 

南無阿弥陀