むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

受容

浄土真宗、本願念佛の教えとは、どういうことだろう、と

考えています。

 

私は、本願とは受容であると思います。

 

受容とは、じゅゆうと仏教では読むと聞かせて頂きます。

 

受容とは、受け止めることだと思います。

 

受け止めるとは、他者を、世界を、そして自分を一切を受け止める、

引き受けることだと思います。逃げない。不都合な現実であっても、

わたしが生きるべき現実、自分自身を奪い返すこと、

これを和田先生は救いであると仰っていた。救いとは、受容だと思う。

 

しかし、どうしても私には他者を、世界を、あげく自分さえも

受け止める力がない。全く無能力である。

 

だから如来は仰る。汝を決して捨てぬ、と。共におると。常に説法したいと。

 

常於大衆中 説法師子吼(重誓偈)

 

 

決して捨てぬとは、摂取不捨の心、

我が為にまことの言葉にまことを重ねて誓う心、これを大悲と頂く。

 

ただ大悲を仰ぎ、ただ念佛を聞く。わたしの思い、わたしの行動、一切、

往生の邪魔にも助けにもならない。無関係。蚊帳の外。

 

往生はご本願が決する。わたしはただ大悲を仰ぐ。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

一皮むけばみな骸骨。今命ある人も、150年後は一人残らず誰もいない。

骸骨が他の骸骨をよいとかわるいとかいう。

そういうことは、本当にどうでもいい。

世の中は平等だと思う。無常である故に。