この頃、長文を書くのが億劫になってしまい、まともにブログの更新ができておりませんが、おかげさまで元気にやっております。
基本的にX(旧twitter)でその時におもったことをポストしています。
少し毛色が変わったものとして、スペースを何度かやっています。
大体一時間以内で、本やお聖教の言葉をてがかりに宗教哲学について考えています。
まぁ、誰も聞いていないですし、誰かにというよりは、自分のために話をしているような感じですが、正直な言葉で、正直な話をするようにしています。
アカウントを持っておられたら聞いて頂けるかと思うので、もしよければお聞き下さい。
僕はずーっと、四回目の内容が大切なものだと考えていたのですが、有縁の先生、清沢満之先生、滝沢克己先生の指南を受け、
(われらは確かに今ここに居る)ということの大切さに心が惹かれつつあります。
これが五回目の内容であり、
もう少し言葉にまとめられたら、ブログで考察してみたいと思っています。
即ち、今ぼくらが存在していることを支えて下さっているはたらきがあるということであり、そのはたらきこそが無分別であり、平等であり、智慧であり、慈悲であり、大悲ではないだろうか、と思うことであります。
一回目(挫折すること、苦悩すること)
https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1733306400389128434?t=dKTYd5tchh1ju39l4QD4eQ&s=19
二回目(宗教哲学について)
https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1742459372993917251?t=h7H3BmeuRDEgB5502vToTA&s=19
三回目(真宗について 大乗の魂をてがかりに)
https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1743452718101041500?t=ascMPsKzk-P21jLSnUGzkg&s=19
四回目(正定聚不退転について)
https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1745989134144184353?t=JYhq-xCmvMILwYUf6c-oaw&s=19
五回目(煩悩や菩提の前にあるもの)
https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1754686692836233581?t=HOxo6Dt1lH6B08UiwTxdNw&s=19
清沢満之先生 我信念より
無限大悲の如来は、如何にして私に此平安を得しめたまうか。外ではない。一切の責任を引き受けて下さることによりて、私を救済したまうことである。
如来の前には毫も限りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私はただ自分の気の向う所、心の欲する所に順従(したが)うて、これを行うて差し支えはない。その行が過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。
如来は、私の一切の行為について、責任を負うて下さるることである。
私は、ただこの如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に偏満してある。如来の能力は十方にわたりて、自由自在、無障無碍に活動し給う。私は、この如来の威神力に寄托して、大安楽と大平穏とを得ることである。
私は、私の死生の大事をこの如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり。富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、この天と命との根本本体である。
このような言葉を媒介にして、伝わってくる、響いてくるものがあるように思うことです。
南無阿弥陀佛
2024.4.27追記
六回目
木村無相さんの本(求道60年歎異抄を生きて)をてがかりに。
https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1783345050807873635?t=LcMkq-nzeod8MGyCUB4BIw&s=19