むなしさとともに

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帰命無量寿如来

帰命無量寿如来無量寿如来に帰命し)

 

正信念佛偈の冒頭に記されている言葉です。

 

僕は随分この言葉がよく分からなかったのですが、この頃は少し感じるものがあり、このところを考えてみたいと思います。

 

物心ついたのは、四歳の頃ですが、生まれるということは、自分で選んだことではないのです。

 

また男性として生を受けたのですが、これも身に覚えがないことです。

 

不思議なご縁で、41年あまり生きてくることができましたが、大きなはたらきの中で、座を与えられてきた、あまたの命や人々に支えられてきたと思うのです。

 

つまり、自力で生きてきたとは言えないのであります。

 

もちろん、努力してこなかったわけではないですし、今もまだ努力の途中で、何かを得たり、新しいことを身につけるためには、努力せざるを得ないし、努力しなければ機会が巡ってきた時、ものにできないとも思います。

 

ただ、この生きているということは、与えられているもののように思うのです。

 

なぜならこれも自分で造ったものではないから、です。授けられているといえるような、でも自分のものではなくて、貸与されているような、そして、正確にいえば、まだ生きているといえる状態だと思うのです。

 

何がいいたいかというと、不可分不可同不可逆のはたらきによって、今ここに居る自分、今まで生きていた自分というものは、支えられてきた、支えられている、今も支えられ続けている、ということです。

 

不可分不可同不可逆というのは、滝沢克己先生の言葉なのですが、阿弥陀佛、即ち無量寿如来のはたらきを端的な言葉で表すときに、今の自分には、この言葉がしっくり来るのです。

 

確かに、自分で生まれたいと思って、この世に出てきたのではないし、理不尽なことがなかったわけでもないし、言葉で他者を傷つけたり、多くの過ちや過失もあった。

 

もう生きられないな、どうしようかと途方にくれた夜もあった。

 

今も生存していることに対して、全面的に肯定感を持っているわけでもないし、どちらかというと、痛いし悲しい。

 

それでも、今まで不思議に自分という座を与えられてきた、自分という座を保たれてきた。

 

この座は凡夫という座であるけれども、なぜか分からないが、まだこうして生きている。

 

そして、凡夫という座を照らす光、念佛の信心にまでなって、自分を支えて下さっている。

 

正確にいえば、無量寿如来の光明はあまねく三世十方の衆生を一切平等に行き渡っている。だから、在ることができる。

 

僕らは無量寿如来のはたらきの中に居ながら、支えられながら、そのことを迷失している。

 

これを流転という。

 

なぜ見失っているかは分からないが、ずっと見失っており、無明といい、知るべきことを知らずに存在している。

 

この僕らの先天的な迷い、無明を破るためにはどうすればよいかを仏様のほうが思案下さった、これを五劫思惟という。

 

そして、自分は一切衆生において、名となり声となってはたらき、わが浄土に往生せしめようと誓って下さった。

 

無量寿経には、我至成仏道名声超十方とあり、正信念佛偈には、重誓名声聞十方とそのことが示されている。

 

阿弥陀佛は名となり、声とまで成って僕らに気づかせようとしている。

 

あなたは仏となるべき者なのだよ、と。

 

真宗の特徴は、この名声という大悲の方便が在すことだと思う。

 

この名声を南無阿弥陀佛といい、念佛という。

 

念佛において、大悲と出遇い、そのことが本質的には、自分に出遇う、出遇い続けていくということに変成せしめられる。

 

滝沢克己先生は、自分たちが居るということを支える根本的なはたらきとの接触を第一の接触と仰っており、

 

南無阿弥陀佛による気づきを第二の接触と仰っているように思う。

 

実はこの第二の接触は、真宗では第三の接触であろうと思う。

 

真宗における第二の接触とは、念佛である。

 

念佛を称え、念佛を聞く。この原始的な行において、実は既に深く無量寿如来との関係がある。

 

そして、第二の接触を通して、第三の接触

 

即ち無根の信の発起が凡夫において起こる。

 

こちらに根が無い、所属しない信心故に、

 

如来回向という。

 

このような構造を真宗は持っているのではないかと思う。

 

このことをもっと深く考えていきたいと思っています。

 

南無阿弥陀佛とは、全く底なしの大悲であります。

 

南無阿弥陀