むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

信心決定後の人生について

如来に出遇う。

これは人間にとって、決定的な出来事であり、古来次のような表現で表されてきた。


聞其名号信心歓喜乃至一念
至心回向願生彼国即得往生住不退転(佛説無量寿経 第十八願成就文)

不退転地に至る(沢山の経典で拝見しているため、割愛)

信心決定、安心決定、信心獲得(主に蓮如上人)

愚禿釈の鸞、建仁辛の鳥の暦、雑行を棄てて本願に帰す(顕浄土真実教行証文類 化身土の巻)


なぜ決定的な出来事かというと、まず二つの側面が決定せしめられると体解する。

このことを伝統的に往生と言われてきた。

1.行が定まる・・・・依るべきは念佛一行(和田稠先生)諸行に用事なし。

2.方向が定まる・・・方向に二種あり。一つには現在地、二つには至るべき彼の土。

前処を娑婆という。また堪忍土ともいう。苦の世界ともいう。

後処を浄土という。無量光明土ともいい、安楽、涅槃、真実報土ともいう。

注意すべきことは、方向として与えられる

のみであり、娑婆ではそれで十分である、

ということ。


これらを自分の言葉で表すならば、

迷いを迷いと知らしめるはたらきにはじめて遇った、ということである。


これはこの3年間あまり、身をもって、多くの善知識に尋ねてきたこと、

あるいは先達の古書に当たってきたこと、念佛を聞かせて頂いたことの

現時点で重要なことである。

 

・煩悩は信心決定しても増えもしないし、減りもしない。そのままである。

・ただし、煩悩を煩悩と知る、あるいは煩悩にも涅槃にも執着しないということが

如来に出遇うということの中身である。そして、これは出遇い、聞き続ける中に

開けてくることである。初歓喜地ではわからない(まだ十分に体解できない)

・往生が今生における人間の救いである。

・往生は一時点を表すものではない。往生には始まりがあり(一念)、

必ず遂げられるという性質がある(臨終の一念、大槃涅槃を超証すというお言葉)

 

これまでの浄土真宗では、如来に出遇う、ということで全て片付くのである、という

ような説き方がされてきた気がする。

しかし、実際に、たとえ如来に出遇ったとしても、迷いの身、我執、無明は現存する。

それは縁がほどけるまで、留まるのである。僕はそれに当初戸惑った。

この後、自分はどうすればいいのか。何をすればいいのか、と。


この一点で、方向を示して下さったのが、藤谷秀道先生である。

(先生は方向を示して下さったのであり、自分にとって、先生の説が正しいかどうかは、

重要ではない。聞き続けるのだよ、という方向性を明確に示して下さったのである。

そして、先生は十地経の菩薩の階梯で表現してくださった。

これも方向である)


今こそ、念佛の行者は、往生の意味、意義を自身に明らかにせねばならない。

そして、生き様、生活を通して表現しなければならない。

信心は自他を区別するものではなく、
いよいよ自他の区別を超えさしむるはたらきだからだ。

自分は信心を得た、お前はまだだ、などという根拠にはならない、ということだ。

3年あまりで見聞した中では、初歓喜地に留まるものが大変多いように思う。

喜びを握る、そこに留まろうとする。経験があるから、よく分かる。

よろこびに浸りたい。とどまりたい。

身を通して、通ってきた道だから、わかる。

しかし、それらでは声聞、縁覚(独覚)と変わらない、実につまらないものである。


自利には限界があるが、他利には限界がない。

そして、そこを本当に歩ませてくださるのが、念佛であり、信であり、如来であり、

浄土であり、善知識であり、同行であり、サンガである。


菩薩道は無限に続いていく佛からの道である。


さぁ、いよいよ聞いていこう。どこまでも聞いていこう。

迷いの身に帰れば、常にタスケルと本願念佛がはたらいてくださるでないか。

そんなつまらぬところに留まるな。

いよいよ如来の無限大悲をどこまでも聞いていこうでないか。

どこまでもともに尋ねていこう。それが具体的な往生の相である。

往生は法蔵比丘の念佛往生の願力によって

必ず遂げられる。


終わりなき歩みが始まった(和田稠先生)


いつか出会う如来の御子へ。


先立って念佛に出遇い、今も出遇い続けている凡夫、ナナシより。


南無阿弥陀