むなしさとともに

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座標を獲るということ(所在)

時間が経つのは早いですね。今月はこの記事の投稿だけになりそうです。

 

 

 

今回は、所在について考察します。

 

 

まず結論を。

 

(ここは娑婆なので、何処にも居場所はない。あえて自らの座標があるとすれば互いの自身のみである)と考えます。

 

 

むなしさを(所在)という側面から考える場合、

 

身の置き所がない。

 

何処にも自分の居場所がない。

 

安心して居れる場所がない。

 

安心して居れる場所だと思っていたが、安住の場所ではなかった。

 

 

こういう言葉で言い表せるのではないかと思います。

 

さて、自分の居場所とはいったい何なのでしょうか。

 

繰り返しになりますが、人間である以上、孤独は避けられないと思うのです。

 

身が違うため、互いに住む世界、見える世界が異なるので、決して分かり合うことはない。

 

つまり、自分のことを本当にわかってくれる者など居ないのです。また、翻せば、自分も真に誰かのことをわかってあげることかできないといえます。

 

つまり、孤独は避けられない。

 

場所とは、誰かが居てくれるものです。

 

自分を待ってくれている人が居るから、帰ることができる。

 

さて、本当の意味で自分を待ち続けて下さる方がいるのでしょうか。

 

人間であるということは、常に限界を抱えています。金銭的にも、精神的にも、肉体的にも、できること、許容できることに限度がある。

 

仮に親、兄妹であっても、許容値を超える事象として、自分が寄りかかったなら、見捨てられるのです。重荷を見捨てなければ、彼らが潰れてしまう、と言い換えてもよいです。

 

つまり、お互いには確実に限度、限界があるのであります。

 

つまり、人間が人間を助ける、真の意味で救うことは不可能だと考えます。

 

本当に行き詰まったことがなければ、この残酷さを理解することは難しいと思います。

 

身を通したことは忘れたくても忘れられない。

 

自分にとって、このことは譲ることはできぬことです。

 

つまり、畢竟、自分にとって安心して居れる場所などないのです。

 

では、真宗でいう、正定聚不退転という言葉における、所在とはないのか? 

 

否、この身が所在です。ここしか自分の所在などないのです。そして、こここそが、如来と邂逅を果たす大切な場所なのです。

 

つまり、機といいます。

 

本願の機ともいわれます。

 

煩悩具足の凡夫とは、機、すなわち、自分の座標を指します。

 

座標において、自分が定められ、同時に、如来まします、大悲ましますということが体解せしめられると感じます。

 

この身は滅んでいく。白髪も少し増えてきました。確実に老いています。

 

しかし、南無阿弥陀佛は滅びない。必ず涅槃に至らしめて下さる。これを必至滅度と申します。

 

即ち、佛のさとりはひらけない故に、苦悩は死ぬまでやまないけれども、必ず浄土に至らしめて下さることは、確実であり、その名告りが南無阿弥陀佛。

 

南無阿弥陀佛といっても、今ここに、この身に称えさせられ、聞こえて下さるところのお念佛のほかになし。

 

一声一声が大悲。

 

この大悲に助けられて、必ず浄土に至らしめられる。そのことが決定している。

 

仏法も信心もない。あるのは煩悩ばかりだ。

しかし、無礙の光明は煩悩を障りとしない。そのまま貫き、徹照して下さる。

 

この南無阿弥陀佛に助けられて往生せしめられるばかりで、ほかになにもない。

 

この煩悩具足の凡夫の身のほかに、自分の所在などないと思うことであります。

 

南無阿弥陀

 

阿弥陀佛、すなわち、法がぼくらを待っている。このことに気づくか、気づかぬかが人生における一大事であります。