むなしさとともに

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衆生とともに

人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。

無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。

 

勤行の前に、拝読する三帰依文です。

 

自分を中心に世界がある。うまくいかないのは世界が悪い。

このように生きてきました。

 

しかし、今はこのように思います。

 

自分は、他のいのち、世界とともに存在するものであって、それらが存在せずして

自分が存在することはない。ともに存在するものである、と。

 

念佛が聞こえたとき、歓びを握るということが起こりました。

それが1年あまり続いたでしょうか。

 

沢山の先生との出遇い、聴聞によって、そうではない。

念佛、仏法とはひたすら聞くものであり、掴むものでも、握るものでもない。

 

一途に聞くものであると教えて頂いております。

 

そして、自分だけよければよいというものではなく、有縁の人々が、仏縁を

結び、ともに念佛申し、浄土へ往生するまで、決してこのあゆみは終わらない。

 

幸福か何か知らないけれど、そんなちっぽけで、安っぽいものではない。

 

そんなものは独りよがりだ。自己満足に過ぎない。つまらないことだ。

 

しかし、たびたび握ることが起こるけれども、念佛と信が立ち返り、

立ち返り、解いていく。

 

念佛往生は如来の悲願。わたしの悲願ではなく、如来法蔵の悲願である。

 

南無阿弥陀

 

助けるの仰せ

如来は待っている。衆生を信じて待っている。

 

ただ待っているのではなくて、動きながら待っている。

 

すべてを知り抜いて、どうしても助からない、迷いに埋もれるしかない

 

このわたしを、だからこそ、我は決して汝を捨てない、と仰っている。

 

これが弥陀の誓願。果たさずばおかないの心を果遂の誓いと仰る。

 

これがわたしの体解する仏法、すなわち南無阿弥陀佛。

 

すべてから見放され、一切を捨てたわたしを、それでも助けずばおかない、

 

我が名を称えよとの如来の大悲の仰せ。

 

どんな言葉も尽き果てて、ただ南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛。

 

助からないまま、助けられる。

 

助からないそのまま、必ず助けられる。不可思議の大悲本願智慧念佛。

 

法蔵の大願業力に一切を托す。これが帰命の相。一度まかせたらすべてをまかせる。

 

仰せのままに南無阿弥陀佛。

 

 

*こんなこと言っても、本当は分かったつもりになっているだけなのです。

 

 どんなことばを用いても、表現できないし、表現しつくせない。

 

 それはただ、南無阿弥陀佛と念佛を申す以外に表しようがないのであります。

 

 自分の信心が破られ続ける、思いが破られ続けるのはめでたい、と

 

 和田先生は仰っていました。おそらく、自分の独りよがりの理解、解釈が

 

 念佛によって打ち砕かれ、ようこそこんなわたしを捨てずばおかないと

 

 仰って下された、と慶ぶ、信の一念に何度でも立ち返ることを

 

 仰りたかったのでは、と思います。いずれにせよ、念佛を申し、耳に

 

 聞こえるのは、決定往生の響きと教えて頂いております。

 

 

 称名念佛の人は決定して往生すと信じて乃至一念もうたがう事なきを、

 

 深心と也(西方指南書 15実秀に答ふる書より:親鸞聖人)

 

有縁の知識

私が現在ご縁のある先生方については、事前に相談等も必要だと

 

思いますし、その人の信仰の状況にも関わることなので、

 

このような場では申し上げるつもりはありません。

 

しかし既に往生された先生方ならば、お伝えできると思います。

 

二人おられます。

 

藤谷秀道先生と和田稠先生です。

 

お二人ともにご著書もあります。

 

和田先生は『常没の凡愚』というCDも市販されております。

 

本当に深刻に自分が苦しんでいるのかどうか。

 

また一体何に苦しんでいるのか?

 

最も大事なことは、如来はわたしに何を仰っているかを聞くこと、

 

これだけであります。

 

南無阿弥陀

 

追記:自分の先生です、というものの、実際にお会いしたことは

   ありません。しかし、先生方の言葉は肺腑に沁みるのであります。

   仏語は解釈するものではなくて、響くものであります。

   念佛は称えるものではなくて、専ら聞かせて頂くものであります。

   口で称えれば耳に聞こえる。それは称えさせ、聞かしめたい、という

   大悲のもよおしがあればこそ、一声の念佛が出てくださるのであります。

   自分には、念佛を申す心など微塵もないのです。