むなしさとともに

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善知識

佛縁を下さった有縁の方を善知識とお呼びする。

 

自分にとっての善知識を考えてみたい。

 

善知識 - WikiArc

 

・祖父。一声も念佛しなかったが、間違いなく地蔵菩薩の化身だと思う。

 

・妻。彼女が居なかったら多分死んでいただろう。ただ傍にいてくれることが、

 どれだけ支えてくれたか。弥陀の本願を味合わせてやりたい。

 刺し違えても構わないから、何とかしてやりたい。無謀な考えでも、

 こう思わされるほど、恩が深いのである。

 

真宗親鸞聖人の言葉とご縁を下さった方。たまたまの出会い。

 

・藤谷秀道師。信の一念で全てが終わるわけではない。これは出発であり、

 ここから真実が明らかになってくる、と教えて下さった。

 師はお子さんを二人なくしておられ、耐えられぬ悲歎を経て、念佛に

 出遇われた。師のお言葉は肺腑に沁みるのである。

 

・念佛の師。専修念佛の先生。先生にお遇いできて本当によかった。

 生きた念佛の人ほど有難い方はおられぬ。法の力強さを常に説いて下さる。

 優しい。苦しみ、悲しみを知っておられるから、他者へ配慮ができるのだろう。

 

・信心の師。機を教えて下さる。人間の悲しみの尊さを教えて下さる。

 先生の教えに対する真剣さは、聞法の場以外でも変わらない。

 

・和田稠先生。往生の師。助かったと言わせてくれない。どこまでも

 歩み続ける往生の力強さを説かれる。

 

・有縁の方々。生活を通して、わが身わが心の浅ましさを繰り返し、

 巻き返し教えて下さる。人は光である。人がいなければ佛は必要ない。

 人がいなければ自分の浅ましさは見えない。有難いと思う。

 

今は釈迦如来が滅度をとられてから、まだ年月が浅い。

確かに末法であろうが、有縁の先生方を拝見しても、

信心決定されている方は沢山おられる。妙好人もおられる。

 

こういう時代に生まれることができたのは、幸いだったのだろう。

 

ただし、もしもう少し時代が下がった時に生を受けたとしても、教法を通して、

 

釈迦如来の教え、本願念佛の教えは躍動するだろう。

 

如来所以興出 世 唯説弥陀本願海(正信偈

 

南無阿弥陀佛 

親鸞に出遇ったひとびと

タイトルの本は、読んでほしい本であります。

 

カテゴリーに「ふれてほしい本」を加えました。

 

時々紹介できれば、と思います。

 

 

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こんなブログに足を運んで下さる方がいらっしゃるようでありまして、

 

ぜひ尋ねてみたい。どうしてこんなブログを見てくださるのですか?

 

何かひっかかるものがあるのか、それとも真宗の教えを聞いておられる方々なのか、

 

自分には分かりません。コメント待ってます(笑)冗談です。

 

しかし、われわれ人間は必ず死なねばならない身を生きている。

これは、どんな人も共通して貫く問題であります。

 

何人も逃れることのできない、ゆるぎない事実であります。

 

このことを先立って問題にされ、生死出づべき道を求められた先達がいる。

 

これが真宗であれば、親鸞聖人をはじめ七高僧、釈迦如来であります。

 

タイトルの本は1~5までありますが、数字の大きいほうが現代に近い方々の

 

お話であります。藤谷秀道先生も出ています。高倉会館で講演された際の

 

お話です。読み進めると、自分の感覚に近い先生に出会うでしょう。

 

さすれば、その先生の著書、有縁の知識を尋ねれば光が見えてくるでしょう。

 

 

先立って生きて往かれた、往生されていった先達の言葉をてがかりに、

 

自分は何のために存在し、何をしにこんな苦しいところへ来たのか。

 

それを古来、後生の一大事という言葉で表してきたのであります。

 

現実を直視し、わが身に真に対峙したとき、「わたしは何一つ分からない」と

 

立ち尽くさざるを得ない。

 

そのとき佛の声が念佛の響きとなって衆生を貫く。

 

聞其名号信心歓喜乃至一念至心廻向願生彼国即得往生住不退転と、

 

無量寿経、本願成就文であらわされた「とき」であります。

 

永遠に裏づけされた一瞬。

 

それによって、往生が定まる。往生が定まるとは、

 

自分は一体どうすればいいか、が解決されることであります。

 

自分の答えは、いつ如何なるとき、場合においても、ただ念佛を申す。

 

念佛を聞く。自分のすべきこと、すなわち行はただ念佛の一行を持つことのみ。

 

他に何一つすべきことはない。これは生きた先達、全休さんに教えて頂き、

 

それを生活で確かめていることであります。

 

専修念佛唯一行の道をたとえ一切に捨てられようともとぼとぼと往く。

 

他者は関係がない。自分と如来の関係に何人も介在する余地あることなし。

 

どうすればいいか、立ち尽くした日々があった。

 

涙も枯れた日もあった。

 

今もあのときと何も変わらないのかもしれない。

 

変わったとすれば、念佛が聞こえる。ただそれだけだし、

 

それだけで満足なのである。

この響きは凡夫往生の悲願の響きである。

 

あなたは何をしに、こんなところへ生まれてきましたか?

 

今一体何をしているのですか?

諸行無常 生者必滅 盛者必衰 一切皆苦 涅槃寂静

 

 

南無阿弥陀

 

 

自力を尽くす

自力は他力の中において、はじめて全力を尽くすことができると思う。

 

滅ぶなら滅べ。死ぬるなら死ね。

 

出遇うべきもの、聞くべきものに今遇うことを得た。

 

念佛が本願海に何度でも何度でも呼び戻す。

 

われをたのめ、必ず助ける、と仰せ下さる阿弥陀如来

 

阿弥陀如来を通して、法性法身の無上佛に帰る。

 

信とは智慧である。智慧とは如実知見である。

 

如実知見とは即である。煩悩を煩悩と即、知見すれば菩提であり、涅槃の働きである。

 

菩提・涅槃はすなわち度衆生心である。

 

衆生心とはもろもろの衆生とともにという底知れぬ大悲である。

 

6年前の手帳を開いた。ほとんど変わっていない。

 

ただ明鏡止水のごとくと書いてあった。

 

当時、何か求めていたのだろうか?よくわからない。

 

今はただ自分に与えられた境遇とこの煩悩具足の身をもって、

 

佛法に体当たりしていくのみ。砕けるなら砕けよ。

 

無限大悲は砕けない。本願のはたらきそのものとなった人を菩薩という。

 

煩悩をひっさげて、浄土へ往生させられるばかりである。

 

南無阿弥陀