むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

光は照らすものである。

 

照らされて影が浮かぶ。

 

影以外に自分はなく、影を通して光に出遇う。

 

いつの間にか佛法に立って、一切を見下し、驕慢心を起こしている。

 

繰り返し繰り返し影に遇う。そこには痛みや悲しさややりきれなさが

 

付きまとう。どうして自分はこうなのだろうと。この現実は何だろうと。

 

目の前の現実に対し、あまりに自分は無力である。

 

その自分に出会い続ける。目をそらさずに、痛みやむなしさを

 

受け止める。受け止めさせるはたらきもまた光である。

 

しかし、目の前の人が自分を照らしてくれる光でもある。

 

それはまことの光に出遇うことで初めて浮かび上がってきた光である。

 

170105追記

 

人は光である。自分独りでは決して自分の心の動きに気づくことができない。

自分を照らしてくださる光である。人が居る。本質的には、このことが

本当に大事なことだと思う。人は決して薄っぺらいものではない。

ひとりひとりが、とてもとても深く、歴史を持つ者である。

これは智慧の念佛によって、気づかされるものである。

 

 

2016年

この一年は、不思議なご縁で沢山の方にお会いさせて頂き、

 

共にひとときをすごすことができました。

 

日々、現実と念佛から知らされることは、

 

いよいよ迷いは深い、全くそこがつかないということしかわからないほど、

 

深淵である、ということと感じる。

 

浅ましい、残念である。うぬぼれ、我執、我愛。愛欲、名利。

 

財欲、怒り、そねみ、ねたみ。これらが明るみになってくる。

 

悲しいなと思っても、刹那すぐに消えてしまう。悲しさをひきずることさえ、

 

できない。

 

しかし、如来は仰る。だから、捨てない、と。

 

水火の難に堕することをおそれざれ。我能く汝を護らん。

 

二河の譬に弥陀如来が仰るお言葉のとおり。無碍であり、無量であり、

 

一切の有碍を貫く。これが選択本願念佛。

 

初めは転であったが、今は忍、そのまま堪える。如来が足となり、大地となり、

 

共に受け止めてくださる。

 

それが念佛である。自然のりょうをしらせん念佛である。

 

念佛は本願である。念佛の他に本願はない。このことを絶対不二と味わう。

 

来年もいのちがあれば、共に念佛往生の本願、大悲を聞かせて頂きたく思う。

 

こんなしょうもないブログをどなたがご覧になっているか、わかりませんが、

 

ご縁を賜り、有難うございました。

 

寒い日が続きますが、くれぐれもご自愛下さいませ。もしよければ、

 

お念佛を申してください。ただくちになむあみだぶつと。

 

本願とともに。南無阿弥陀

能動的信

自分には確固たる使命感もないし、特別なことも

できない。

口も達者でなければ頭も良くない。

人付き合いも下手。

 

でも一隅を照らしたいと思う。

 

挨拶、掃除、仕事、人との交わり。はがきを書く。

 

虫、鳥、ねずみ、魚。

念佛の兄弟を傷つけいのちを奪わざるを得ない身を既に具足している。

そこに微かな痛みを感じる。そして忘れて、また思い出すを繰り返す。

 

そして、ただ念佛を申す。いつでも、どこでも、小さな声で。

自分に聞こえれば十分。

 

これが自分にとっての一隅灯照。ただ念佛の道。

 

如来はわが身の安穏を要求しているのではない。

衆生の痛みや悲しみへの共感性を求めているように感じる。

今はまだ分からない。訊ねていきたいと思う。