足るを知る、ということ。どんなに豊かな暮らしを送っていても、
その心が、幸せだと感じることができなければ、それは幸せとは云えないだろう。
その逆も云える。どんなに貧しくても、笑顔ですごせて、感謝できるならば、
その人の心は豊かだと思う。
でも、ないなら、ないで、できることもある。
ない、ことを嘆くより、今、あることに目を向けて、大事にしたいと思う。
お金がなくてもできること。
あいさつをすること。感謝の言葉をかけること。笑顔で接すること。
心をこめて、目の前のことに向き合うこと。
実は、沢山、沢山あると思う。でも、それをずいぶん粗末に扱ってきたなと思う。
また、それを自分が認知できなければ、それは在ってもない事と等しいと云える。
自分には何もないけれど、何もない故に、今できることを大事にしたい。
何もできないからこそ、目の前のことに心を尽くしたいと思う。
全然分かり合えないからこそ、相手のことをわかってあげたいと思う。
自分はつくづく天邪鬼だなぁと思う。
仏法とは、今、現在、ここに存在する私いちにんのための教えであり、
それは、この拙いブログを見てくださる、あなたいちにんのための教えであります。
不思議なことだなぁと思います。
本願と共に。南無阿弥陀仏
16/09/14追伸
お念佛とは、口に「なむあみだぶつ」と申して、耳に「なむあみだぶつ」と
聞くことであります。お金もない、地位もない、名誉もない、
誇れるものは何一つない。悪が止まらず、差別も止まず、
善も分からず、他人への共感性が根本的に欠落している。
そういう私のために、如来が「余行-一切の行」を捨てて、
「唯一行」を選んでくださった、これを選択本願の念佛と申します。
お念佛は、とき、ばしょ、人、性別、一切を隔てない。如来のよびかけです。
その呼びかけが、わが身に響く。
その時、本当の人生が始まります。そのことを、
即得往生 住不退転と申します(大無量寿経)
それが始まるのは、死んでからではない。「ただ今」だ。
どうぞ一声でもかまいません。お念佛申してください。
こんな力のないブログを続ける、
名もなき男とそれを支える如来の大悲の切なる願いです。