むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

仰せにしたがう

帰命とか南無というと、おまかせ、とかそのままとか聞きます。

 

自分なりにこの言葉を味わうならば、

 

ただ、仏語、すなわち如来の仰せ、よきひとの仰せのままに、

 

従う、そのことを帰命といい、南無というのだと思う。

 

これは、何にも難しいことはない。日常生活で何度も、何度も

 

僕らはやっている。

 

「仰せにしたがう」

 

小学校のとき、体育館とかで集まるとき、先頭の学級委員がいいました。

 

「前ならえ」

 

そのとき、「前ならえなんていいやがって」と思う人もいるかもしれないけど、

 

幼いころの自分は、ただ、何にも考えず、両手をあげて、前ならえ、してました。

 

運動会の練習の時、体育の先生が号令をかけました。

 

「右向け右」

 

「左向け左」

 

「回れ右」

 

「全体とまれ」

 

号令に従う。

 

浄土真宗では「誰」の「なんという」号令に従うのか。

 

誰の。如来の。本願をお勧めしてくれるよきひとの。お釈迦様の。親鸞さまの。

 

では「号令」とは何か?

 

「乃至十念」 「称我名号 下至十声」

 

「我が名をとなえよ」

 

「必ず助けるで、我にまかせよ」

 

これだけ。この仏語に従い、ただ口にお念佛申す。

 

これが「ただ念佛」だと頂きます。

 

何にも知らないし、ぐちゃぐちゃな心のまんまに、ただ念佛申す。

 

ただ口に名号を称える。

 

これが浄土真宗における「帰命無量寿如来」の姿だと頂いております。

 

ここに「如来」と「わたし」の出遇いが成就しました。

 

愚者になりてとは、愚者になり続けて、わたしの思いが破られ続けることと

教えて頂きました。

 

本願とともに。南無阿弥陀仏

 

2016.06.08追記)

 

仰せに従う、このこと一つが如来に出遇う、ということの

 

分岐点だと味わいます。

 

なぜか。

 

親鸞聖人は「歎異抄第二章」で、私は、お念仏が浄土に生まれる因なのか、

 

地獄に生まれる因なのかわからない、

 

ただ、わたしは、

 

「よき師法然上人のおすすめ」にただ従うばかりなのです、ということを

 

仰っています。

 

仏法の真髄とは「よきひとのおすすめ、如来のおおせに順う」という

 

この一点に尽きる、そう思います。自分は、愚者になりたくない、

 

そういう者ではない、そう信じているため、如来の仰せに従えない。

 

このことを「邪見驕慢悪衆生」と仰っています。

 

何一つわからなくてもよい、ただ念佛申せの本願の仰せに

 

そのまま従う、わたしの身の上で経験したことについては、

 

このことが全てであります。