幼いころ、スポーツ、勉強をするにしろ、基本をないがしろにしていた。
意味がわからないから。地味で目立たない。
歳をいくばくか重ね、ようやく気づく。
基本とは歴史であり、歴史には歩みがあり、根拠がある。
お釈迦様にせよ、イチローにせよ、道を歩み続ける方に共通して、
いえることは、おそらくどんな小さなことでさえも、おろそかに
しない。一途に心を込めて取り組むのだろうと思う。
浄土真宗の行は念佛一行とはいえ、自分の現実に立ち返ると、
ほかの行をかなりおろそかにしていると思う。
言葉、挙作、動作。文字。不十分だ。
一つ一つ、自分にご縁のある物事、人とのかかわりを通して、
自分自身が問われてくる。出来事が如来として、自己を問うてくる。
これが浄土真宗の特徴だと思う。
もしも問われず、まなこが外に向き、他人のよしあし、愚痴、
不平不満しか、浮かばないのであれば、
それは全く聞いていないことになるだろう。なぜなら、
自分の都合でしか聞いていないからだ。そのまま聞いていない。
思いによって、歪曲している。
法が歪んでいるのではなく、自分の思いが歪めている。
どれだけ聴聞を重ね、よろこんでいても、自分の思いは救いには、
一切関係がない。
思いは思いに過ぎない。
妄想顛倒のなせるなりと伺う。
ひとつひとつ、確かめていかなければならない。
本願とともに。なむあみだぶつ