人間が憑みにしているものに、会社(組織)がある。
会社の役職、役割、仕事によって、生活が支えられている。
大企業、中小企業さまざまであるが、やはりその場によって、
支えられているといえる。
佛教とは如実知見、ありのままを観察する、智慧の教えである。
その観察に基づけば、会社は、自分の存在そのものを支える大地とは
成り得ない。
なぜなら諸行無常であり、縁起によって形が保たれているからである。
またその組織において果たすことができる職責は、自分の健康や能力という
身体に基づくはたらきに左右されている。
すなわち、身体のはたらきに支障が出た場合、その会社で、わたしを支えることが
できるというものには、必ず「範囲」がつく。
ここまでは、何とかできるが、これ以上は、できない。
「申し訳ない。あなたはもういらなくなってしまった」と言わざるを得なくなる。
だから、会社、ないし、組織に属する、というのは、
利害に基づく契約に過ぎないのである。
故に、それを拠り所にする人間は、その縁起が崩れたとき、苦しみを感じる。
対して、南無阿弥陀佛とは、寿命無量、光明無量を本とした無限大悲である。
無辺光。ほとりがない。えらばず、きらわず、へだてず。
根本的に我々の憑みにするものと次元を異とする。
畢竟依を帰命せよ、と親鸞聖人は和讃で仰った。
これはわれら衆生にとって、存在、生存の根本に関わる言葉である。
あなたは何によって、存在していますか?何に依っていますか?
会社に限らず、国家も会社もシステムに過ぎない。
佛教の智慧は、冷徹までに、現実を直視している。
われらは、この現実から逃げることはできない。
崩れるならば、崩れよ。
無常よ、われを滅ぼせども、如来より賜りたる信を滅ぼすこと能わず。
南無阿弥陀佛