むなしさとともに

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還相廻向

われらは本願によって大悲されている。

 
すなわち罪悪甚深煩悩熾盛のわれらをたすけんがために、
 
平等の慈悲に催されて建立された願であるが故に。
 
南無阿弥陀佛とは完全にわれらに調整された願であり、
 
敢えて相を摂られた大悲である。
 
無碍とは観察であり、止観であり、直視直観である。
 
常住とは決して如来とわたしは離れない。離れようがないということ。
 
一切衆生の罪は如来によって大悲され、痛まれている。
 
しかし、そのことに気づかずに流転してきた、流転している。
 
それに気づかされたことを信といい、初歓喜地という。
 
歓喜地とは出発点である。信は金剛心ともいい、金剛心は
 
菩薩の最後心であるといわれる(聖徳大使)
 
依るべき行が正しく確定した。念佛の一行ただ一つである。
 
行信が智慧のはたらきをなし、導いてくださる。聞いて聞いて聞いて聞けよ、と。
 
念佛せよ、念佛聞けよ、と。
 
六、七地を過ぎて、初めて確認する。如来は常住であり、平等であり、
 
われらと決して離れようがない、と。
 
だからといって、我を立てず、驕慢にならず、卑下にならず、執着せず、
 
喜んでも喜び続けず。誰にも知られることなく、とぼとぼ中道を往く。
 
無執着とは執着をなくすことでなく、止観することであろう。
 
止観即空であろう。
 
往生とは生き様である。生き様とは表現である。
 
法は表現を通して、相を示す。相なきが故に必ず衆生の相を通す。
 
念佛衆生の相を通して、初めて本願が明らかにされ、表現される。
 
表現され続けることを通して、如来のはたらきが明らかになるのである。
 
これが還相廻向であろうと思う。
 
戯言は戯言で、ただ念佛に帰る。念佛に帰っては元の木阿弥、
 
元の木阿弥からまた念佛に帰る。
 
自分に信心はない。あるのは助けるの仰せだけである。
 
仰せに従いただ念佛に帰る。それだけだしそれ以外になんともない。
 
南無阿弥陀