むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

名無往生文 八地 不動地

十地経にのたまわく、八地以上の菩薩の行は無功用である、と。

 
わたくしが考えまするに、七地以前の菩薩の眼目は自利である。
 
自利には限りがある。広がりと深さがなく、我執の習気を感じる。
 
聞其名号、大悲が届いたとき、大いなる歓喜が起こる。
 
それは刹那であっても、永遠を包摂した一瞬である。
 
過去生からずっと、求め求め続けてきたこと、
 
しかし、ずっと忘れてしまっていたことである。
 
方向が如来によって定められたのである。これでようやく佛法を聞いていく道が啓けた。
 
しかし、わたしはやり損なうのであります。歓喜を握ると手垢がつく。
 
いつまでも、歓びに浸りたい。ここで留まりたい。わかったという気がする。
 
すなわち『独りよがり』に陥るのであります。
 
ここを本当に離れさせてくださるのが、他力の信と念佛であります。
 
信の一念を繰り返す、一途に如来の教えを聴聞する。諸佛善知識の残してくださった
 
言葉に尋ねる。ここをくぐるのであります。藤谷秀道先生は仰った。
 
欲生我国の御心を尋ねるには、体当たりするしかない、と。
 
第六地 現前地 三界唯心(無明と我執以下の煩悩の水際)
 
第七地 遠行地 七地沈空の難(声聞、縁覚と大乗の菩薩の水際)
 
第八地 不動地 願力自然
 
船を海まで運んでくるのは大変だったが、海原に至ったならば、
 
船は本願の清風の力によって進んでいく、と八地の中で、譬えられている。
 
八地以上は利他行に向かおうと決意する。利他行とひとつになる。
 
利他は無限無辺である。果てしない広がり、底しれぬ深さがある。
 
思いまするに、いつでも念佛に帰る、本当に後念相続を切望している同行が甚だ少ない。
 
歓喜地のものははなはだ多く、うろうろしている。時に経論の言葉を
 
自分の欲望を満たすために用いている者がおり、驕慢のにおいがして、聞くに耐えない。
 
あさましいことである。佛法とは分かるものでない。ただ聞き、ただ仰ぐものである。
 
自分の文章はただ書いているだけであり、これは仰いでいるのである。
 
 
無功用とは見返りを求める必要がないということ。目的と手段が一つになること。
 
菩薩と菩薩行は離れない。不二である。
 
菩薩は菩薩行であり、菩薩行が菩薩である。
 
驚嘆すべきことに、聖徳太子の書物を拝読すると、太子の関心、眼目が
 
八地以上であったことが明らかである。
 
親鸞聖人は師、法然聖人と別れられたのち、七高僧の教えだけでなく、
 
聖徳太子の教えに本願の御心を尋ねられ、驚嘆されたのだろう。
 
聖徳太子和讃のお心の片鱗をわずかながら感じるのである。
 
無限大悲、このお言葉は勝鬘経義疏、一乗章にある言葉である。
 
この一文を見たとき、太子は本当に佛法を体得された方だったのかと思った。
 
まことに尊いお方が日本に出られたものである。
 
その薫陶を今を生きるわれらを驚くほど蒙っている。
 
南無阿弥陀