むなしさとともに

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十方衆生ということ

唯除五逆誹謗正法とは、最底下ということ。

 

すなわち、自分の後ろには誰もいない、十方衆生はいないということ、これは自分自身の言葉。

 

 

先生から頂いた言葉があり、時折思い出す。

 

尽十方無碍光如来の尽とは必ず最後の一人まで助け遂げるということだ、と。即ち最後の一人とは今ここに居る自分なのだ、と。

 

十方衆生の最後の一人が自分なのだ、と。

 

阿弥陀佛の覚りの内容は、十方衆生の平等往生である、と。

 

 

信楽とは、自他を区別するマークではない。

 

助からぬ自分を徹底的に照しい出す光、智慧である。

 

凡夫、という言葉は如来智慧の言葉である。即ち如来回向の言葉である。

 

不可思議にも平等を啓いて下さるおはたらきであり、自分の所有物には決してならない。

 

一念の信を握るな、とは握らないことを表しているのではない。

 

信を握り、所有し、信を他者と自他を分け隔て、助かった自分、助からぬ他者、と区別している自身に気づけよ、ということ。

 

ここに至るには諸仏のお勧めということが起こる。これは菩薩十地の階梯でいう七地沈空の難であり、七地を超えるには、諸仏のお勧めが押し出して下さる、ということに重なる。

 

こういうことを言う人を煙たがり、遠ざけるということは、よく見る光景。

 

自分の後ろには誰もいない、ところまで引き摺り出してもらわなければわからないことがある。それを菩薩十地の階梯ということが暗示していると感じる。

 

 

願以此功徳  平等施一切

同発菩提心  往生安楽国

 

南無阿弥陀

 

専ら念佛聞けよ、われをたのめの仰せが仏法。今聞こえて下さる念佛のほかに本願もなく、如来もなく、南無阿弥陀佛もない。

 

お互い常にお念佛に立ち返らせて頂きましょう。小さな声でお念佛聞かせて頂きましょう。行住座臥不問時節久近、常に共に居るという大悲回向の念佛であります。