むなしさとともに

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歎異抄聴記⑨七地沈空の難を超えさせてくださるもの

念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。これがつまり菩薩のうえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である。求むべき菩提もなく、度すべき衆生もない。(p258 歎異抄聴記 曽我量深師)

 

解ったという喜び。

 

確かにないわけではないが、ずっと握るものではない。握り続けると物惜しみに囚われる。手放したくない。他の者とは違うのだ、と。

 

ひらけがない。我執はうちに閉じる、篭る。

 

そうではない。

 

南無阿弥陀佛が自分の上に成就することは、自分は決定して凡夫であること以外にない、自分は一生涯何も悟ることはない、ということだろうと感じる。

 

つまり、云いたいのは、いくら心は浄土に遊ぶのだといったところで、自分の足元は娑婆であり、身は煩悩具足でありましょう、と。助からぬわれらでありましょう、ということ。

 

助からぬわれら故に助けて下さる本願が今ここにこの身に念佛にまでなってはたらいて下っている。

 

こういうことをいうと歓喜地で留まる人はすごく煙たがる。嫌がる。忌避し、遠ざかろうとする。

 

そうではない。それは独りよがりというもの。

 

師は仰る。助からぬ身に帰れ、と。

 

迷いに帰れ、と。

 

原点に帰る。

 

倦怠期を超えさせて下さるのは諸仏の勧進、つまり後押しであります。

 

師の教えに再び立ち返る。耳を澄ます。立ち姿を思い出す。そして、師のおすがたにまでなってくださった大悲を殊更に何度でも伺う。

 

そこには倦怠を透過させて下さるものがあります。

 

大事なところであります。

 

道に迷い、難儀したことがあるから、道を知るのです。覚えるのです。きっと師も迷われたはずです。

 

ここをくぐることで、いよいよ自分は全く助からぬ存在であることを徹底的に知らしめられることが始まります。

 

菩薩の階梯、八地、不動地から無功用に入ると云われます。計らう必要はない、と。

 

いよいよ如来の光明が助からぬ身を徹照して下さるということであります。

 

南無阿弥陀