念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。これがつまり菩薩のうえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である。求むべき菩提もなく、度すべき衆生もない。(p258 歎異抄聴記 曽我量深師)
解ったという喜び。
確かにないわけではないが、ずっと握るものではない。握り続けると物惜しみに囚われる。手放したくない。他の者とは違うのだ、と。
ひらけがない。我執はうちに閉じる、篭る。
そうではない。
南無阿弥陀佛が自分の上に成就することは、自分は決定して凡夫であること以外にない、自分は一生涯何も悟ることはない、ということだろうと感じる。
つまり、云いたいのは、いくら心は浄土に遊ぶのだといったところで、自分の足元は娑婆であり、身は煩悩具足でありましょう、と。助からぬわれらでありましょう、ということ。
助からぬわれら故に助けて下さる本願が今ここにこの身に念佛にまでなってはたらいて下っている。
こういうことをいうと歓喜地で留まる人はすごく煙たがる。嫌がる。忌避し、遠ざかろうとする。
そうではない。それは独りよがりというもの。
師は仰る。助からぬ身に帰れ、と。
迷いに帰れ、と。
原点に帰る。
倦怠期を超えさせて下さるのは諸仏の勧進、つまり後押しであります。
師の教えに再び立ち返る。耳を澄ます。立ち姿を思い出す。そして、師のおすがたにまでなってくださった大悲を殊更に何度でも伺う。
そこには倦怠を透過させて下さるものがあります。
大事なところであります。
道に迷い、難儀したことがあるから、道を知るのです。覚えるのです。きっと師も迷われたはずです。
ここをくぐることで、いよいよ自分は全く助からぬ存在であることを徹底的に知らしめられることが始まります。
菩薩の階梯、八地、不動地から無功用に入ると云われます。計らう必要はない、と。
いよいよ如来の光明が助からぬ身を徹照して下さるということであります。
南無阿弥陀佛
2022/5/15追記
この記事がよく読まれているようなので今思いますことを記載します。
七地と八地では全く質が違うと思うのです。
七地までは、自分が進むという感覚。
しかし、八地からは、無功用、本願の
はたらきにより、凡夫ということがいよいよ知らされる。
この迷いはどうにかなるような迷いではなかった。
自分が迷っている、というよりは、自分が
迷いそのものである、というもの。
つまり、死ぬまで迷い続けるということでしょう。苦悩はなくならない、ということです。
ただし、苦悩が響く、響き合うことがあり、苦悩を抱えた衆生のひとりである、ということが、宝のようなものである、ということであります。
そして、もう一つ、既に照らされているということがあります。
確かに迷っているけれども、その迷っているわれらは本願念佛のはたらきが在す世界に座を与えられている、ということがあります。
これは、十地経に記載のあることであります。
2022/08/30追記
思考が停滞する、ということは経験があるのではないでしょうか。
殊に、真宗では、心境に酔うと視野狭窄、即ち衆生を見失う、と言われます。
実は衆生を見失うのではなく、自身を見失うのだと考えます。
すなわち、助からぬ身を具足している、ということを忘れている、或いは、本当に助からないということ、この煩悩はどうにかなるようなものでなかった、と
まだ知らされていないのだと思います。
恐らく、これは何度も何度もお座を重ね、念佛を申し、思惟し、現実の中に身を置く中で、ふと知らされていく、お育てのはたらきなので、時を待つ以外に
手立てはありません。僕のブログの特徴として、
八地 不動地というものをずっと考えていることがあります。
無功用、ということが信者めぐりという本を通して、より明らかにされてきました。
ソノママナリデタスケル、ということ、
往生も憑む一念も佛仕事じゃわいな、ということです。
特に、往生は佛仕事、という言葉です。
これには参りました。佛様の仕事の邪魔を
せず、自分は自分の分限に甘んじていくよりほかにどうしようもない、ということと
改めて教えて頂きました。
もし、ご縁があれば、十地経(中央文庫 荒牧先生訳)という本もご覧になって下さい。
真宗の念佛往生ということにも密接に関係がある内容だと考えます。
2023.7.19追記
やはり、七地沈空ということが真宗を学ぶ方々に思い当たるのでしょうか。
この記事をよくアクセス頂いているようです。
記事を書いて、暫くの時が経ち、今思いますことを追記します。
大事なことは、心境に酔わない、現実を見る、身を忘れないということだと感じます。
心境は移ろうものです。僕も大きな歓びがなかったわけではありません。
しかし、歓びは色褪せるものです。特にその歓びに留まろう、歓びを握ろうとした時、強烈な分別に陥りかねません。
解った、やっと解ったという歓び。
これは留まるべき処ではありません。
留まるべき所、足をおろし、腰をすえる
べき大地は凡夫の身であります。
ここに本願が念佛となっておはたらき下さる。
凡夫に還すのが南無阿弥陀佛であると言っていいと思います。
凡夫に還らしめられれば、われらが観える、われらと聞こえる。
本願に誓われているのは、十方衆生であります。
親鸞聖人は、いしかわらつぶての如くなるわれらと仰る。
つまり、助からぬ無明の存在がわれらであり、無明が響く、無明の存在故に響き合うことがある。
やはり七地と八地は、無功用、はからう必要がないという点が全く違うと言えるのだろうと感じることです。