むなしさとともに

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仏語に従う(唯信仏語決定依行)

唯信仏語 決定依行(愚禿鈔 下巻)

 

自分が何者であるか、何をすべきか、何をしに生まれてきたか?

 

何のために生きているのか?何がわかるのか?

 

何一つ分からない者よ、我が名を称えよ、と如来は仰る。

 

釈迦如来も『汝よくこの語をたもて。無量寿仏の御名をたもて』と仰る。

 

洹沙の諸仏方も仰る。『我らが念佛を証しする。汝はひたすら念佛を申せ』と。

 

ただ仏語を信じ、決定して行に依る。

 

これが念佛往生、選択本願念佛の道。この道をひたすら往く。

 

この道は如来からの道。必ず往生は遂げられるとよき人は仰る。

助かるか助からぬかはしらない。ただ念佛を聞く。それだけでよい。

 

南無阿弥陀

悲しみ歎き

悲しいなと感じることが多い。

 

自分は、そのものを見ることができない。

 

うわべもほとんど分からない。況やそのものをや。

 

自分の判断基準をもって、その人をその存在を区別し、価値づける。

 

それが決して止まない。動きどおしである。

 

そして、欲。湧いてくる欲と衝動。抑えることができない。

 

渇愛というのだろうか。

 

自分が、罪の意識なんていっても、それは僕が分かる感じる範囲の話で

あって、全く意味を成さない。

 

もっと深く、ずっと引きずってきたものがある。だから、

生まれてしまった。

 

生まれる、ということは迷いの存在が生起するということであって、

本来おめでたい、といえるようなことではない、と個人的には思う。

 

生きるということは、それほど重いことだと思う。いのちを奪う。

奪うの後ろには、奪われたものがある。必ず。そのことを忘れる。

 

極重の悪人とはかかるものをいうのであろう。それは誰でもない。

自分自身である。そして、その深さは全く検討がつかない。

 

せめて、ひとを観る努力をしようと思う。せめて。存在として

 

見る努力をしようと思う。たとえできなくても。それが抗う精神だと思うから。

 

ただ、悲しみが痛い。分別が痛い。存在していることが痛い。

 

南無阿弥陀

誰が為の本願か

如来の作願をたずぬれば

苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまいて

大悲心をば成就せり(正像末和讃

 

罪悪甚深煩悩熾盛の衆生をたすけんが為の願にてまします(歎異抄第一条)

 

なぜ如来は我が名を称えるばかりで、必ず助けると仰るのか?

 

なぜ法蔵比丘は自分自身を捨ててまで、汝を助けずんばおかないと仰るのか?

 

 

苦悩の有情とは、老病死を含んで生まれざるを得なかったわたくしである。

 

川上が完全に汚染されているならば、川下も汚染される。

 

わが身とは川上ではない。川下である。目に見えるほど。そして、これさえ

どうすることもできない。心も体も自由ではない。自分の思いに縛られ、

これがよいか、あちらがよいかとふらふらして、迷う。

 

迷いを重ねるうちに、いよいよ重ねる、仏法の罪が甚だ深い。

それが罪であるとも思えない。

 

そして、自分は自分が一体なにものであるか?いつ生まれたのか?

何をすべきなのかも全く分からない。大切なことが何一つ分からない。

これを無明という。根本の無知。

 

煩悩具足。煩悩成就。煩悩熾盛。罪悪甚深。これらはもう抜けることができない。

常にそこに沈んでおる、そういう響きがある。

 

常没の凡愚。これが実相。そして、いのちを終え、また生まれていく。

これを流転という。

 

だからこそ、汝を決して捨てない。

 

だからこそ、汝を助ける。

 

罪悪甚深煩悩熾盛の衆生をたすけん。これが本願の生起でありましょう。

 

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし、とよき人の仰せをこうぶりて

 

信ずるほかに別の仔細なきなり(歎異抄第二条)

 

何も分からないまま、ただ、よきひとの仰せをそのまま聞いて、

 

ただ念佛を申す。念佛を申せば、耳に聞こえる。

 

その一声は法蔵比丘の血、汗、涙から生まれた声である。

 

われらは退転する。されど、法蔵の願心は不退。

 

法蔵の願心が念佛往生を遂げていく。

 

南無阿弥陀