むなしさとともに

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言葉尽きて

いよいよ言葉が尽きてきました。

 

専ら仰せに従う。

 

それだけであります。

 

乃至十念 若不生者 不取正覚

仏説無量寿経 第十八願 念佛往生の悲願)

 

我が名を称えるばかりで、必ず我が浄土に生まれさせる。

 

汝は念佛を申すだけでよい。一切は弥陀が全責任を負う。

 

必ず汝を助けるの仰せ、これが一声の南無阿弥陀佛。

 

ただ仏語を信じ、決定して行に依る(愚禿鈔

 

行とは如来の大行、即ち南無阿弥陀佛と申し、耳で聞くのみ。

 

念佛を申せば、必ず自分に聞こえる。その一声が必ず助けるの仰せ。

 

よきひとが、念佛は如来の勅命なるぞと、仰るのであれば、

それが何かは全く分からなくても、そのまま南無阿弥陀佛と申す。

 

ただそれだけである。

 

念佛往生は如来の悲願であり、わたしの悲願ではない。

如来がその存在を懸けて、誓っておられる。それが不取正覚のお言葉。

 

その悲願に一切を託す。果たし遂げずばおかないの誓い、

 

さらに重ねて誓われたのは、誰のためか?正しく上げも下ろしもならぬ、

 

このわたくしのためでした。

 

南無阿弥陀

助けるの仰せ

一声の念佛は、汝を必ず助ける、との如来の仰せ。

 

自分の口を通るけれども、自分の行ではない。

 

如来の大行である。

 

大行とは無碍光如来の御名を称するなり(教行信証

 

名となり、声となった如来が今ここで口に称え、耳に聞こえる、

南無阿弥陀佛。

 

南無阿弥陀佛とは助ける、助けるの仰せ。

 

不可称不可説不可思議と仰られるように、言葉も思いも尽き果てて、

ただ南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛。

 

称えれば必ず耳に聞こえる。小さな声で念佛を申す。大きな声で称える必要はない。

自分で称え、自分に聞こえる。聞名の行と頂く。

 

仰せに従う。如来に確信があればいい。この身はどうしようもない。

 

この身と情けない心のままに、南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛。

自分の思いや悪業煩悩をそのまま貫く。無碍光如来を有難く思う。

 

南無阿弥陀

 

他の方便さらになし

極悪深重の衆生

他の方便さらになし

ひとへに弥陀を称じてぞ

浄土にむまるとのべたまふ(高僧和讃 源信和尚)

(意訳)

極重の悪人である我々は、他の善行や他の仏菩薩の力で救われる

方法はさらにない。

ただ弥陀の名号を称えて、浄土に生まれることができると仰せられる。

 

ワイド岩波文庫 親鸞和讃集 P133

 

極重悪人とは、他の誰のことでもない、わたしいちにんである。

そして、わたしはもはや、一切の方便手立ての尽き果てたものであり、

決して生死流転と呼ばれる存在のありようから抜けることができない者である。

 

しかし、如来は仰る。わが名を称えよ。汝念佛申せ。そんなものは承知だ。

用事がない。一切は弥陀が引き受ける、と。わが本願力は無窮なり。

 

極重悪人唯称仏の仰せにただ従うだけ。

それがただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしのよきひとの仰せである。

他に用事なし。ただ念佛を聞く。

 

嬉しいとか悲しいとか、罪悪感とか無常観とか、用事がない。ただ念佛を聞け。

その一声の念佛が如来の大悲である。そのまま聞くばかり。聞くことが

そのまま、即、如来の仰せに従うことである。

 

南無阿弥陀