むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

形から心を聞く

心は目に見えない。

 

だからといって、ないわけではない。

 

形を凝視すれば、心を見出すことができる。

 

心は形に現れる。形とは姿、相である。

 

南無阿弥陀佛とは、大悲の相である。

 

大悲の相とは、喚ばふ、ということ。喚ばふとは、喚び続けるということ。

 

喚び続けるというのは、お前を決して見捨てない、愛している、ということ。

 

心がすでに言葉となり、親切にもわたしの声にまでなってくださった。

 

称える心も絶え果てて、ただこの一声を聞く。

 

南無阿弥陀

 

 

 

おぉ阿弥陀よ

よびづめ たちづめ 招きづめ

 

弥陀は焦がれてあいにきた

 

そのお姿が南無阿弥陀佛(松並松五郎先生のおうた)

 

このくちにあらわれたまう念佛がまさか如来ご自身であったとは。

 

まぁご親切に、自分がいなければ阿弥陀にならんですんだのに

 

ほんにご苦労をかけますね。

 

おぉ、よくぞ念佛してくれた。よくぞ我のいうことを聞いてくれたのぅ。

 

念佛を申せば如来が慶ぶ。如来が念佛を行ずる。大行じゃぞよ。

 

如来を慶ばしてあげればいい。称えるままが聞くままじゃぞよ。

 

おぉ阿弥陀よ。わたしは浄土へ往きたくなくとも、あなたは

 

わたしを離して下さらぬ。おぉ阿弥陀よ。阿弥陀にひきずられて

 

彼の国へまいる。口称の本願。おぉ阿弥陀よ。本当にご苦労かけますね。

 

南無阿弥陀

 

生粋の直説法、御法話の頂上がこの口に現れたまう南無阿弥陀佛(松並先生)

 

ひたすら生粋の直説法を聞かせて頂きます。

 

 

 

 

またしばらくお休みします

122 一宗の繁昌と申すは、人の多くあつまり、威の大なる事にてはなく候う。一人なりとも、人の、信を取るが、一宗の繁昌に候う。しかれば、「専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず」(式文)と、あそばされおかれ候う(蓮如上人御一代記聞書)

 

立派な法要に参加させて頂いた。寺族、一般の方問わず、沢山の方が

いらっしゃっていた。

 

しかし思った。この中で信を獲ている、あるいは獲ようと足を運んでいる人は

いったいどのくらいいるのだろう、と。

 

自分は聞くために伺ったが、法要が終わり、お話に入る前に帰られる方も

見受けられた。

 

浄土真宗は、学問知識教養の類ではなくて、存在に決着を着けて頂くための

教えである。

 

つまり、存在が問題にならないのであれば、必要がない教えといえる。

 

では、お前はどうだと言われると、首を傾げざるをえない。

 

なぜなら、自分にはそもそも聞きたい、聞こうという心がないからだ。

 

念佛申す身にして頂いたのは、ひとえに如来のおんもよおし、光明名号の

 

お育てに預かったからである。自分の力は微塵もない。

 

他力というは如来の本願力なり(教行信証

 

また暫くお休みさせていただこうと思います。別に意味はありません。

 

ただ何となく、書くことよりもむなしさに浸りたいと思うだけであります。

 

南無阿弥陀

 

17.06.13追記

 

有縁の先生はこう仰いました。

 

自分の救いを抜きにして、言葉遊びをして、あぁだこうだ言っても、

何の意味もない。自分のような者が本願力によって助けられたのだから、

必ず一切衆生は助けられる、必ず如来に出遇うのである、と。

 

先生の目には涙が浮かんでいました。僕はそれを見て感動しました。

 

虚仮不実で、こびへつらい、どうにもならない自分であるけれども、

一つだけ、まことが言えるとするなら、

ずっとわれらを待ち続けているのは如来であり、その名告りが、

南無阿弥陀佛である、ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし、

これだけであります。あとは何にも知りません。

 

面々のおんはからいなり、との親鸞聖人の仰せを思って

しばらく筆を置きます。では、また。