むなしさとともに

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力が入っていたなぁ

3月ごろある座談会にて、何とか伝えられないか、自分が頂いているところは

伝えなければ、と思い、ずいぶん力が入ってしまっていた。

 

結局は、自分が分かっているつもりになってしまうのだと思う。

 

今はどうやと言われれば、今もそうなのかもしれない。

 

ただ、今念佛の声が聞こえる。それだけでいいのではないかと思う。

 

今、ようやく出離生死の縁が整ったということなのだろう。

 

今、やっと念佛を申さしむる条件が整った。

 

如来が待ち望んだ時に至った。

 

 

如来衆生に出遇う時を久遠劫来待っていた』

 

これが自分の体解する佛法である。

 

『待っていた』

 

この一言は三世を超える如来の大悲から出た言葉である。

 

念佛が聞こえ、本当に遇うべきものに遇うことを得た。

 

この一点で、自分はやはり生き返ったのである。

 

南無阿弥陀

 

 

金剛心は如来の心

逆らわずに、素直に任せるは、随順の心。

 

過ちを認め、恥じるは、慙愧の心。

 

この心、わが心にあらず。これ如来がわれらがために成就し、

 

回向してくださる、如来の心。

 

この心、不壊不滅常住につき、金剛心と申す。

 

念佛の声を通して、如来の無限大悲が、われらが胸を貫き至り届く時、

 

信心の花が開く。これを佛凡一体、機法一体と仰る。

 

信心の花は散っても、憶念の種は念佛の響きとなって、絶えず響き給う。

 

わが身わが心、如何なる悪業煩悩を催しても、如来大悲の念佛が出てくださる。

 

汝を決して離さぬ、往生させる、

その如来のお心を本願力といい、そのはたらきは、摂取不捨と名づく。

 

如来は二心なく、一心であり、一心は決定心である。

 

如来に迷いがないならば、私は安心して迷って死ねる。

 

南無阿弥陀

ひたすら聞く、教えを請う

お念佛は聞きものです。称えるということは、そのまま聞くこと。

 

尊敬する先生がよく仰ることであります。

 

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとの

仰せをかぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり(歎異抄第二章)

 

この言葉が真実であることを、本当に伝えたい、本当に味わってほしい人に

全く伝わらない。自分の思い、すなわち無明からくる邪見驕慢の心に

縛られて、本願のお心が届かない。これが現実であり、

この現実に潰されそうになる。ニヒリズム、無力感。

 

信楽まことにときいたり、と仰るように「とき」が至らなければ、

衆生に念佛の信心は発起しない。

 

 

ならば、自分はどうするべきだろうか?

 

汝、我が名を称えよ。タスケルデタノメ。

 

やはり如来の仰せに信順ずる外に道なし。

 

自分が他人に伝えられると思っているのが、自分の現実なのだろう。

 

自分の力を過信する自力の執心は本当に根強い。

 

人の身でできることは限られている。末徹ることが一つもできない。

相手を受け止めることも、自分の身を捨ててでも念佛申させることも

できない。

 

だから、今は専ら念佛の心を聞く。教えを渇望する。自信教人信とは

仰られるが、自分には自信しかない。

 

自分が専ら念佛を聞く、この一行をたもって、力なくして娑婆の縁尽きるとき、

 

本当の自由と平等が実現する。それを二十二願で誓っておられる。

 

果たし遂げずば、正覚を取らじとまで仰ってくださった。

 

そして、今この自分とともにまします如来を信じ、念佛を申す。

 

他人は知らない。言うならば何とでも言え。専ら如来の教えを聞く。

 

人間の分限、身の程を知れば、自然と如来に頭が下がる。

 

我らは限りある身を生きている。一切のものとのつながりの中で

いのちをたもっている。それが自分である。固定普遍的な自己などない。

 

そのことに醒めることを信心という。それは如来の仰せをそのまま

 

聞いていることである。

 

そのままとは、如来の仕事に手を出さぬこと。清沢先生のお言葉だったろうか。

 

如来の土俵は訳の分からぬ我が身我が心、すなわち宿業である。

 

如来は自らがはたらく場を求めている。

場とは機であり、場所がなければはたらきようがない。

 

 

南無阿弥陀