むなしさとともに

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信の純化と柔軟心の成就

他者を批判し、批評するのは簡単だ。

 

自分が問題にならず、外ばかり見ている。




しゃべらないのではない。

 

ただ黙っているのだ。

 


結果を出せば凡夫は黙る。

 


結果は待っていてはいつまでも来ない。

 


結果は準備、動きの果てに成就するものだと信じる。

 


自分が当事者にならず、問題を外から見ているだけではだめで、


具体的な行、表現が問題だと考える。


行じ続ける。たとえ誰から見向きされなくても。誰、は関係ない。

 

大小善悪は問わない。ひたすらに行う。

 

堪えきる。踏ん張る。


如来はみそなわしてくださる。常に念じてくださる。この意を


憶念という。

 


迷っても念佛に帰る。立ち止まっても念佛に帰る。


何度でも、何度でも帰る。


それが信の純化、柔軟心の成就という具体的実践に


つながり、自然に還相回向と顕れてくださる。

 


自信教人信。専修念佛。この如来回向、選択本願のただ一行を


相続し、具体的現実に体当たりしていく。その果てに往生が


遂げられるのであろう。


きっと藤谷先生はこう仰りたかったのだろう、 と深く思慮するのである。


また具体的な師、先生から教受していただけること、ことに深く、


有難く思うのであります。

 


南無阿弥陀

念佛に極まる

念佛は大悲の相。

 

相に如来の心も行もこもっている。

 

もはや自分の心や有様に囚われず、

 

ただ、わが名を称えよの仰せ、助けずば

 

おかないの仰せを聞き念佛を申す。

 

この選択本願念佛の一行をたもつ。

 

念佛から一切の行が溢れてくるが、

 

一切はわが力で行ずるのではない。

 

如来回向の念佛が起点である。

 

この一行をたもて、行じよ、の仰せに

 

帰命し、念佛聞思せしめられるばかり。

 

ほかに何もないし、期待もしない。

 

迷おうが迷わまいがそのまま託すだけ。

 

仰せが聞こえて下さるだけ。

 

南無阿弥陀

 

 

念佛を申す

先生はいつも仰る。

 

今ここで念佛を申し、耳に聞く。

 

親鸞聖人、法然聖人は専修念佛、常念佛の

 

お方であった。現在の浄土真宗では、

 

選択本願念佛を専ら行ずる、

 

無量寿佛の御名をたもつ、念佛行を軽んじて

 

いる。今ここで口に声に出て下さる

 

お念佛を聞く。これ一つであると。

 

本山にお参りしても、念佛は聞こえない。

 

まず自身が念佛に親しむ。これを大事に

 

したい。

 

南無阿弥陀