むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

確証を得る

ばたばたしているが、

 

物事、やりとりを通して自然と気づきが

 

去来したり、自分の目を通し、

 

人の言葉と姿を見て、その人となりを

 

教わることがある。

 

また確証を得る、押えるということが

 

非常に大切だと、身を以て体感した。

 

ただし、限りある身である故に、

 

限界があり、それを補うためには仕組みや

 

システムが必要である。

 

ただし、人のためにシステムが必要であり、

 

システムのために人が要るのではない。

 

人のためのシステムが原則である。

 

身を通してみなければ、それは偶像に

 

すぎない。自身が身を通す、手を動かし、

 

額に汗をかくからこそ、わかることの方が

 

沢山あり、かつ、

 

大切なことではなかろうか。

 

悲しみも同じである。先生は悲しみが熟した

 

からこそ、人間を人間として見出そうとする

 

ようになったんだね、と仰られた。

 

人と見い出せているなんて、思わない。

 

でも、悪あがきしている途中だとは思う。

 

まぁ、とっても悲しいことが沢山あったし、

 

今も引きずっているのだけれど。

 

まだ忙しい日々が続くが、得られるものも

 

あるのだろう。好い連休を!

 

南無阿弥陀

弱いものとして

正直、自分は存在すべきものではないと

 

思っている。どれだけの嘘と偽りと

 

殺生と煩悩にまみれて生きてきたか。

 

生きているか。これからも生きていくか。

 

本当に浅ましいし、嘆くべきことだが、

 

眠りにつけないほどの慚愧はないし、

 

また明日も一日を過ごすのだろう。

 

自分は存在すべきではない、というのは、

 

生涯引きずらねばならない課題であろう。

 

僕は本当に弱く、脆く、

 

浅ましい者であろう。とても悲しい。

 

ただ、こんな自分に南無阿弥陀佛が

 

降り注がれている。絶え間なき大悲。

 

無限大悲、無縁大悲。

 

弱く儚き者よ、汝よ、わが名を称えよ、と。

 

この仰せだけである、わが拠り所は。

 

まことは念佛にまでなってくださった如来

 

仰せだけである。あとは大半が仮、

 

幾ばくかは虚偽、でたらめである。

 

南無阿弥陀

全く仏法が身につかない

教えを聞き、念佛を申す。

 

色々やってみる。柔らかなことば。

 

応対。怒りの抑制。悲しいかな。ちっとも

 

変わらず、浅ましく情けない有様であり、

 

肉魚を食べ、酒を呑み、嘘や媚び諂い、

 

両舌、ごまかし、偽り、偽善にまみれきって

 

いるが、どうしても離れることができない、

 

にもかかわらずすぐに助かったような気に

 

なる。

 

ただし、帰る処はある。仰せである。

 

だからこそ、わが名を称えよと

 

如来は常に仰るのである、と善知識は

 

教えて下さる。だから念佛に帰る。

 

本当仏法が身につかない(笑)

 

実はきっと、身につくと思うことも

 

驕慢なのでありましょう。

 

南無阿弥陀