にんげん
住居は少しずつ落ち着いてきたのですが、もう少し時がかかる見通しです。まだカーテンが買えていません。 さて、この頃考えていることをつらつらと書いてみます。 真宗大谷派に和田稠先生(わだしげし)という方がおられました。 自分は直接お会いしたことは…
土日に法座があり、ZOOMで参加させて頂きました。 まだ頭の中が整理できていないので、今自分が感じていることをまとめておこうと思います(先生のお言葉も含め) 我執を破ろうとする我執は最も深い我執である。 我執と考えた時は常に対象化せざる負えないた…
分別を使うということは、自分も分別をもって見られるということであり、これは諸刃の剣であり、非常に悲しく、また厳しいことと思います。しかし、自分には分別智しかないのであり、無分別智は無いのであります。 良し悪しは空虚であり、中身がありません。…
何か事象や現象を見るとします。 それ自体は特に何も変わらない、いつも同じように見えます。 しかし、視え方が変わるとその事象現象の意味合いや彩りが変わることがあると思うのです。 少し前からこういうことを感じることが増えてきたので、幾つか例えを書…
先日、オッペンハイマーという映画を観たのですが、その中で心に残った言葉です。 劇中の意味では、ある事象が起こる可能性がほぼゼロであるという意味なのですが、ポイントは(ほぼゼロである)ということです。 これ、ゼロではないのですね。ゼロだと言い…
帰命無量寿如来(無量寿如来に帰命し) 正信念佛偈の冒頭に記されている言葉です。 僕は随分この言葉がよく分からなかったのですが、この頃は少し感じるものがあり、このところを考えてみたいと思います。 物心ついたのは、四歳の頃ですが、生まれるというこ…
12月の記事を書かないままに年が明けてしまいました。 本年も宜しくお願いいたします。 自分は平日の大半を仕事に従事しているのでそこで思ったことが(刹那)ということです。 年末で退職した人が居ました。 また去年は20年以上勤めておられた方も複数…
今日は立冬とのこと、月日は百代の過客とは本当ですね。 でも、今年はとても忙しいので一年が長く感じます。 今回はタイトルについて、考えを述べます。 自分が勤める会社の敷地には一本の木があり、多くの枝葉があります。 枝には紅葉しつつある葉がついて…
時間が経つのは早いですね。今月はこの記事の投稿だけになりそうです。 今回は、所在について考察します。 まず結論を。 (ここは娑婆なので、何処にも居場所はない。あえて自らの座標があるとすれば互いの自身のみである)と考えます。 むなしさを(所在)…
何となく長文を書く気分になれず、 このところ、一ヶ月に一度の投稿がやっとですが、引き続きお付き合い頂ければ幸いです。 むなしい、ということの本質は何かということを考えると、次のように感じます。 (存在)人生における手応えのなさ、自分が存在する…
救いは常に現前の救いでなくてはいけない。救いの予約が救いではない。 救いというのは「今、ここに」、という現前の救いでなくてはいけない。 救われようのないような現実を、そこに自分の唯一の生きる道があるんだ、と言っていうならば現実をうばい返すん…
人間は死ぬまでなににぶつかるかわからんのです。しかし、なにが来ても、それを転じていく。そういう生活態度が願心といわれるものでしょう。 中略 病気をしたとか、火事にあったときとかの準備を、今からしておくのではない。 いつでも裸でぶつかっていける…
考え続けるのは流転だ。 考えをやめるのは流転を一服したことです。だから、煩悩だろうが悪業だろうが、全て世間というものを倫理的に反省して、つまらんとかなんとかいって、腹を立てたり自己嫌悪したり神経質にならずに、よく見なさいと。 よく見れば、す…
この文章の前に、作りかけていたものがありましたが、投稿するのはやめました。 何か繕っているような、格好つけてるような感じがしたから、です。 新年度に入り、自分の役割が変わるので、緊張しないわけでもないし、重たいことだとも思っています。 ただ、…
歎異抄 第四条 慈悲に聖道·浄土のかわりめあり。 聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとくぐること、きわめてありがたし。 浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲をもって、…
《揺るぎなき共通項》という言葉を手掛かりに考えます。 年始に引っかかった言葉は《対話》でした。 この言葉はあるテレビ番組を見ていて、有識者が(冷戦)の話をしていた時、こういうニュアンスのことを仰っていました。 どんなに相手に否があると考えられ…
この7年余り、先生方から教わってきたことを自分なりにまとめますと、 《われら》に尽きる、と考えます。 《われら》は(かれら)に対する言葉ではありません。《われら》は汝であり、《われら》の一人として《われ》が成り立ちます。 《われら》とは如来に見…
10月に入り、仕事そのものは少しずつコントロールできるようになりつつあります。 ただ、ブログをアップできるほど、考えがまとまらず、雑多な感じなのですが、少し書いてみようと思います。 右は左で、左は右なのだ。 ふと昨日電車の中で思いました。 降り…
この頃はあまり心境に興味がありません。 自分の周りの現実に対して、どう向き合うかが大事であって、現実を外側から批評しても意味がないと思うのです。 確かに理不尽で、歪なことは山のようにあります。 批判したり、不満をもらすことは簡単なのです。口を…
仕事が更に忙しくなってまして、かつ、諸事情で自分のペースで進めることができません。 再来月からは恐らく落ち着くと見込んでいます。 このブログのタイトルにあるように、僕の人生における課題は、 胸に去来するむなしさからどうすれば脱却できるか、 言…
更新頻度が落ちておりますが、何とかやっております。 Twitterは思いついたことを即座に文字化できるので、ブログを書くための時間が取りにくい昨今、Twitter中心です。 さて、最近考えていることを。 一所懸命行ずるしかない、ということ。 結局は孤独であ…
暑うなってきましたね。夜中も冷房入れてないと眠れない日々です。熱中症、コロナ、くれぐれもご自愛下さい。 当方が職場で(普段)気をつけていることは次の通りです。 高性能マスクの着用(KF94)、 石けんによる丁寧な手洗い(爪、手首、表裏)、 ドアノ…
いしかわらつぶての如くなるわれら、という言葉があり、阿弥陀仏の本願の対象は十方衆生と云われます。 時に、現実では、僕らの言葉や思いが間に合わない出来事が起こりますし、身に覚えのない理不尽がこの身に降りかかります。 その時に思うわけです。何だ…
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/31/1/31_1_126/_article/-char/ja/ 真宗では往生の道程をあまり聞かない。 歓喜地は出発点であり、到達点ではない。 まだ先があり、その深さは底知れない。 十地経というお経があり、僕自身はこのお経から大き…
僕らは、現実の中に居り、生きている。 生きているというよりも、生かされているというか、それぞれの身という、居り場を与えられているのかもしれない。 いのち、は自分の所有物ではないし、この身も所有物ではない。 いのちの中に、自分を形成するはたらき…
最近、よく考えることがあります。 それは(一線を引く)ということであり、この意味は「明確に分ける、区別する」ということです。 ふと、思うのです。 この世には(変えられること)と(変えられないこと)がある、と。 (変えられること)とは、(自分は…
大悲とは名詞でなく、動詞であろうと考えます。 つまり(はたらき)であります。 傍観者ではなく、当事者になろうと動く。はたらきかけていく。 事の大小はあるでしょうが、自分の持ち場、役回りの中で、やれることをやっていく、ということです。 善悪はあ…
6月に入り、ようやく繁忙期が終わりました。 3月からなので、足掛け3ヶ月くらいでしようか。ようやく落ち着きつつあります。 このブログは、むなしさとともに、という名前です。主な内容は、真宗について、であり、思いますことを綴っています。 始めたの…
今年は全然筆が進まず、遅々としていますが、最近思いますことを。 僕は勤め人なので、企業に属しています。企業は組織なので、様々な方がおられます。部署間の利害関係、人間関係、指示命令系統や役割と責任の曖昧さ、色々な要素を含んだ組織です。 様々な…
おはようございます、こんにちは、こんばんわ。ナナシです。 まだ完全ではないのですが、マイルストーンを迎えたので、今、考えていることを少し書いてみたいと思います。 ここは娑婆であり、決して浄土ではないし、浄土にもならない。 自分は全くの凡夫であ…