むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

にんげん

僕らは、現実の中に居り、生きている。 生きているというよりも、生かされているというか、それぞれの身という、居り場を与えられているのかもしれない。 いのち、は自分の所有物ではないし、この身も所有物ではない。 いのちの中に、自分を形成するはたらき…

小さなレジスタンス

最近、よく考えることがあります。 それは(一線を引く)ということであり、この意味は「明確に分ける、区別する」ということです。 ふと、思うのです。 この世には(変えられること)と(変えられないこと)がある、と。 (変えられること)とは、(自分は…

(はたらき)ということ

大悲とは名詞でなく、動詞であろうと考えます。 つまり(はたらき)であります。 傍観者ではなく、当事者になろうと動く。はたらきかけていく。 事の大小はあるでしょうが、自分の持ち場、役回りの中で、やれることをやっていく、ということです。 善悪はあ…

ふりかえり

6月に入り、ようやく繁忙期が終わりました。 3月からなので、足掛け3ヶ月くらいでしようか。ようやく落ち着きつつあります。 このブログは、むなしさとともに、という名前です。主な内容は、真宗について、であり、思いますことを綴っています。 始めたの…

現実への向き合い方 評価について

今年は全然筆が進まず、遅々としていますが、最近思いますことを。 僕は勤め人なので、企業に属しています。企業は組織なので、様々な方がおられます。部署間の利害関係、人間関係、指示命令系統や役割と責任の曖昧さ、色々な要素を含んだ組織です。 様々な…

もう一度出発する

おはようございます、こんにちは、こんばんわ。ナナシです。 まだ完全ではないのですが、マイルストーンを迎えたので、今、考えていることを少し書いてみたいと思います。 ここは娑婆であり、決して浄土ではないし、浄土にもならない。 自分は全くの凡夫であ…

苦悩の起点 善知識に遇えないということ

結論をまず先に。 善知識はいないのではない、自分に善知識を見出す力がないから、見えない。 時節到来ということがある。機縁が熟して露わになる、気がつくということ。 これを自分なりに表現し、苦悩の起点の考察を終わる。 僕は空虚であったので、意欲が…

苦悩の起点 比較

はや3月ですね。時の経過が驚くほど早いです。 4月から5月末まで繁忙期に入るので、体調も含めて引き締めていく必要があります。 さて、僕の苦悩の起点の一つに、比較があります。このことを僕なりに考えます。 僕は、物心ついたときから、むなしいという…

続 現実へのかかわり、柔軟心成就

以前にブログに書いたことの顛末です。 端的には、希望する人がおらず、頓挫した、という結果になりました。 力不足です。これはこれ。 大事なことは(次)はどうするか?です。 いつまでも同じところに留まれる時間はありません。 時は不可逆的ですから。 …

返本還源

https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1489889341157511169?t=YjA-aj6Kq6C7zTwg5enVPA&s=19 ツイートしたことをもう少し掘り下げます。 年末以降、オミクロンの影響で有縁のお寺にもお参りできておりません。 法縁はZOOMが大半で、月に二度、読書会に参…

「伴なるわれら」と【念佛往生】

信仰は硬直してはならない、確固とすべきである。硬直した信仰は狂信的となり、確固とした信仰は寛容である。信仰の確固としていない人は硬直したドグマに両手ですがりつく。これに対して確固たる信仰をもつひとは両手は自由で、その手を他の人々にのばし、…

【続】ということ

年が明け、何となく頭によぎったのが、【続】という言葉です。 この言葉を2つに分けて考えます。 ①続けるということ ②続いていくということ ①【続けるということ】については、この数年続けてきたことを、更に継続するということです。まだうまくいえないの…

今年のふりかえり

昨日は仕事納めで、大過なく終えることができました。 なかなか忙しかった一年、光陰矢の如き年でありました。 少し確認したいので、つらつらと書いてみたいと思います。 1月 アシスタントが退職、自分は体調不良で発熱、PCR検査、陰性であった。 2月 新しい…

現実へのかかわり

先生から【聞法会を開きなさい】という言葉をみちのかいの時に頂いて、ずっと考えていました。 僕は僧侶ではないので、教学がありません。 今、パソコンを持っていないので、ZOOMで場を開くのもまだその時ではないと感じました。 ただ、想定しないわけではあ…

葉は落ちるもの

一段と寒い気がしました。 木々には残り僅かな葉がついており、それらも紅葉が進み、やがて風に吹かれ、地に落ちる感があります。 葉は落ちればいいのだ、とそう思っています。これは循環の一部であり、止められることではありません。 憎むことでもありませ…

煩悩を摧いてくださる光

解脱の光輪きはもなし 光触かふるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ 輪の字の左訓 くだく。解脱といふは、悟を開き仏になるをいふ。われらが悪業煩悩を阿弥陀の御光にて摧くといふこころなり。 光触の左訓 光を身に触るるといふこころな…

平凡に歩みを進めていくだけ

今、帰りの電車の中です。 最近は更新が滞りがちですねぇ。何となく書きたいことが思い浮かばないのです。 僕には殊勝な心がないので、誰かを教化したいという思いがありません。 信仰や哲学を希求する、必死になって探すというのは、時節によると思うのです…

歎異抄聴記⑩まことの言葉

だいたいにおいては聖人は法然上人のひざもとへいかれる前に法然上人のおおせとはほとんど同じところまで進んでいられたにちがいない。ただ法然上人の一言を聞けばよい。なにも複雑なことを聞く必要はない。ただ一言を聞けばよい。その一言とは「ただ念仏し…

歎異抄聴記⑨七地沈空の難を超えさせてくださるもの

念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。これがつまり菩薩のうえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である。求むべき菩提もなく、度すべき衆生もない。(p258 歎異抄聴記 曽我量深師) 解ったという喜び。 確かにな…

地獄について

地獄について思う。 地獄は世界があるのではなくて、自分の居る場所において、自分が感得するものであろう、と。人間界は六道の相があるという。この言葉にも感じ入るものがあるが、別の機会とする。 どうしてもそこに居れないところを地獄という、と師は仰…

歎異抄聴記⑧後念相続

われわれは常に信の一念に立つべし。われわれは後念に立つということはないものである。われわれは常に信の一念に立てというのが、第九条のご教訓の精神である。いのちのあらんかぎりはむろん、乃至一念である。(歎異抄聴記 曽我量深師p258) 僕自身は歎異…

この頃のこと

ブログの更新頻度が落ちています。 仕事がなかなか忙しく、人足が減っているけれども、新しいことにも業務領域を広げつつあります。 3つの業務に加え、4つめの内容です。業務というまではいかないけれど、企画提案の要素があります。提案したものを現実に…

歎異抄聴記⑦本願の機は誰か

身とは一生涯変わらぬ自分である。自分の心は時々刻々に変わるが、わが身は一生涯貫通して変わらない。ゆえに「自身」という。衆生とはすなわちわが身である。われら衆生である。「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」。すべて宿業に悩まされている苦悩の衆生をすてず…

この世界に所属するということ

最近はTwitterも頻度が減ってきました。 なぜかなと思うと、ご利益によるのだと思うのです。批評家に陥りたくはない。言葉だけでなく、言葉と行を以て現実に向き合う時、問題は他者ではなくて、自身だと思うのです。 他者のことを批判できる者なのか、と。 …

歎異抄聴記⑥信心の徹照

なぜ信心をもって肝要とすというかとならば、罪悪深重である。ただ信心だけはいっさいの自力の機のはからいをすてて、自力無効としてもっぱら深く如来をたのむ信心、それに対して罪悪深重という。本願を深く信ずる人はやはり深く自分の罪悪を信ずる。罪悪の…

思うところ

法座に身を置くと、時に、頭がこんがらがるというか、部屋の中がとっ散らかるような、そういうことがあります。 今日が当にそれでした。オンラインでもこういうことが起こるのですね。 はからいが間に合わないのですね。多分。 わかっていたつもりが、全くわ…

無信の自身

最近はまとまった時間を取りにくいため、ツイッターを使うことが多く、 ブログの更新が滞りがちです。まぁ、やることが多くて、昨日はほぼ一日寝ていた感じです。身が疲れているのでしょうね。 歎異抄聴記は非常に難しく、遅々として素読が進みません。 なの…

歎異抄聴記⑤所行能信

われわれのとなえる念仏もまた、所行におさまり、われわれがとなえたからからといって、やはり能行ではなく、たとえ、信以後にとなえたからといって、やはり所行である。能行というわけにはいかないのである。これは真宗学としては、もっとも古い真宗学であ…

雑記

忍耐が試される場面が続いている。 正直、かなり理不尽な事象であるし、腹が立つし、イライラする。 ただ、ふと考える。 この事象は何なのだろうか?と。 立ち止まると考えざるを得ない。 立ち止まると、掘り下げる。 掘り下げるとは、思考やふりかえり、或…

聞名の念佛

南無阿弥陀佛とは、佛の名である。 このことを疎かにしているのでないかと思う。 念佛を申すというのは、佛の名を称えることであり、称えることは即聞くことである。 自問する。 佛の名を称えるような心が自分にあるか? 否、皆無である。 どこをどう探しても…