むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

聖徳太子

親鸞聖人がどうして聖徳太子を讃嘆されたかわからなかった。

 

夢のお告げだけとは思えなかった。

 

太子の著作を初めて読んで驚いた。

 

太子は佛のお心が分かっておられた方とは知らなかった。

 

希有の心を生ずとは、常住を聞くを謂うなり。

通じて論ずることを為さば、常住は本然なり。但是を聞くこと希なるが故に

希有と云う(勝鬘経義疏 其中堂p10)

 

真の意味で親鸞聖人が教えを請うことができる人は法然聖人しか

 

いなかったが、法然聖人とは流刑以後お会いすることが

 

できず、親鸞聖人が苦しくて再び道に行き詰まった時、

 

おそらく太子の著作を拝読して道がもう一度開かれたのだと思う。

単に夢告だけではない。

 

本当に佛法が浸透した方でなければこんな本を書き残すことは

 

できないと感じた。

 

しばらく聖徳太子の本や華厳経や十地経に触れて、如来のお心を

 

尋ねてみます。

 

なんまんだぶ

ねんぶつのうた

最近は、法話の場に行っても、話の内容や言葉を覚えようという気持ちが

 

なくなってしまい、ただ有縁の先生のお顔を見に行っているような、

 

そんな感覚でおります。

 

お念佛もおろそかで、日常はあれやこれやで毎日が過ぎております。

 

いくら自分が忘れても、如来様は忘れてくださらん。

 

これだけで十分な気がいたします。

 

十牛図という禅宗のお話は聞いたことがありますか?

 

このお話の最後は、山を降りて、いろんな人と交わって、お酒を呑んだり、

 

ご飯を食べたり、子どもと遊んだり、というもので終わります。

 

このお心がほのかに感じられます。

 

華厳経の本を読ませて頂いたり、お念佛に親しませて頂き、

 

本来の佛法を聞く前の自分に還っていっているような気がします。

 

信の一念に確かに歓びが起こりましたが、咲いた花は散らねばならぬ。

 

散った後には種が残る。その種が憶念の心。憶念の心は決して休まずに、

 

常に覚めている心だ、と藤谷秀道先生は教えて下さいました。

 

 

いまはただ よろこびも どこへやら ただなむあみだぶつ なむあみだぶつ

 

よろこびはよろこびで おもいではおもいで ただうつしよのいまをいきる

 

ぼんぶはひとりじゃないよ みんなもろとも ひかりをあおぐ

 

大悲無捲常照我身 われをたのめとよびたもうなり 

 

たのしみも かなしみも みなもろともに 大悲にとけていく

 

 

無蓋の大悲

大悲を思う。

よくぞこのような世界に如来が人の姿をとって現れて下さったものだ。

本当にご苦労下さったと思う。

 

そしてその説いて下さったお言葉が、今日、仏縁のない自分にまで

ついに至り届いて、お念佛を申す身にまで仕上げて下さったことに

深く深く感謝致します。

 

われらの浄土往生のために、真実の利、すなわち本願名号の大悲を

今ここに、そしてこれからもずっと説いてくださることに

深く感謝致します。

 

すでに願力のはたらく世界に居らしめられているということを

華厳経の教えから頂き、感動したのでここに綴りました。

 

南無阿弥陀