むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

諦かに見る(現実を凝視する)

他の方はともかく、自分については、救いとは無縁である。

 

どうしても自己中心性を離れることができない。傷つけ、裏切ることしか

 

できない。嘘と偽りだらけである。

 

わが身わが心を諦かに見る。救いはどこにもない。どうにもならない。

 

そこに、一つのよびかけがある。

 

汝の業障の身、煩悩成就の心に一切何も期待しないし、要求はしない。

我が名を称えよ。我が願力にて、必ず汝を我が浄土へ往生させる。

 

口称の本願。本願に相応する故に、何度でも如来の一念に

 

引き戻す。往生には始まりの一念があり、遂げられる一念がある。

 

信の一念、臨終の一念。

 

救いはどこにもない。どうにもならない。どうにもならないことは

どうにもならないと見る。これを如来の如実知見というのだと思う。

そして、これが智慧である。

 

無量の勝方便は実相を思うに従って得。

一切の業障海は皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば端坐して

実相を思え(仏説観普賢菩薩行法経

 

実相とは如実知見である。

 

南無阿弥陀

すべて知っているよ

光明は智慧なりと親鸞聖人は仰った。

 

この言葉を味わうに、智慧とは、全てを見通す力、神通力のように

 

思っていたが、そうではないと思う。

 

人の痛み、悲しみ、苦しみを感じられるのは、

 

その人が身をもって、それらを味わったからこそ、

 

それらを何とかしてやりたいという心が起こるのであって、

 

如来や菩薩は、自分の身を通して、それらの苦渋を嘗め尽くしているから

 

こそ、衆生に対して、慈悲、つまり苦を抜かずんばおかない、必ず助ける、

 

という大悲を起こすのである。

 

そして、なぜそれらを嘗め尽くしているか、あるいは、わが苦しみ、

 

わが痛み、わが悲しみを知っているか、というと、

 

ずっとそばにいるから、ずっとみそなわしてきたから、である。

 

このことを寿命無量という。

 

寿命無量であるが故に光明無量である。

 

ずっとそばにいるよ。これが寿命無量のこころ。

 

決して見捨てない、すべてを知っている。知っているからこそ、

どんなことをしても、我が汝を助ける、というのが光明無量の心。

 

寿命無量であるが故に、光明無量であり、

光明無量であるが故に、寿命無量である。

 

二つは一つ、一つは二つ。不一不二の大悲。

 

いろもなくかたちもましまさずの無上佛が、あえて形をとって、

言葉になり、わたしの声にまでなって、わが身、わが心に響く。

 

それを一声の念佛という。一声の念佛が如来自身であり、大悲である。

 

この一声の響きを聞く。響けば疑うとか助かるとか、そんなものどうでも

 

よくて、ただなむあみだぶつと佛の御名を申すだけで事足りる。

 

かるとか助からんとか、そんなものしらない。如来にまかす、

 

それだけで十分。確信は一つでいい。自分の確信はいらない。

 

まかせたあとは文句はいわない。いいようにしてくださればいい。

 

 

南無阿弥陀

万劫の仇とは何か?

最近思うのは、自分は全く何も知らないし、分からない。

 

根本的に分かってあげる力がない、ということである。

 

誰かのことをわかってあげることができない、受け止めることが

 

できないということは、自分も受け止められることがない、ということになる。

 

自分ができないのに、それを他者へ求めるのは虫が良すぎる。

 

 

しかし、結論は出ている。人間が人間を救うことはできない。

 

なぜなら、有限存在であるから。有限に有限を救うことはできない。

 

有限は無限、はかりなきいのちとひかりに出遇うことで本来の自分を

 

取り戻すのである。これは自分が身を以って体解せしめられたこと。

 

頭で考えたり、理解したこととは別の次元である。

 

疑いや否定を一寸微塵も許さない。

 

これを如来ともいい、真実ともいい、本願ともいい、念佛ともいう。

 

 

 

でも、分からない。この寂しいというのは、自分の思いかもしれないが、

 

自分の思いではないような気もする。すると、この思いは、

 

法蔵比丘の思いかもしれないと思う。確信はない、でも、自分よりも

 

もっと深いところから静かに湧き続けるような、思いのような。

 

でも、こうも思う。

 

 

全くそれが実現できないけれど、だからこそ、諦めきれない。

 

何とか互いに分かり合いたい、受け止めてあげたいし、受け止めてもらいたい、

 

と思うのかもしれない。だからこそ、耳を澄まし、目を凝らすのではないか。

 

寂しさややりきれなさを感じつつ、それを忘れては、思い返し、また忘れる。

 

そんな日々を繰り返している。

 

人間は悲しい存在であるが、人間は『如来に出遇う可能性』を秘めた

 

唯一の境遇でもあるといえるのではないか。人身受け難し。

 

いつまでも万劫の仇に騙されずに、本当に自分が存在する意味に

 

どうか出遇ってほしい。万劫の仇とは、自分の心と自分の身である。

 

 

南無阿弥陀