自分は決して仏弟子にはなれない。
自分の心の中には、いつまでも眠りたい、夢を見続けたい、
フトンから出たくない、おいしいものが食べたい、
貧しい暮らしをおくりたくない、健康でありたい、
こういう心しか湧いてこない。
何が悪いの?と思うかもしれないけれど、
この心は言葉にした、あるいは、思った時点で、分別している。
分別とは、片方を「よし」とし、もう片方を「あし」と分ける心である。
「よし」と思う時点で、そのまま「あし」になる。
つまり、自分にとって、都合のよいことを「よし」、
都合の悪いことを「あし」と徹底的に、無意識に、即座に分けている。
思う前に、分けている。
そういう性を抱えていながら、自分は「よい」ことができる。
「悪」を退けることができる。
このような思い違いをしていた。
自分には「悪」しかできない。また「善」「悪」を判断する
能力が根本的に皆無なのである。
少しあるとか、そういうのではなく、有る事無し、つまり、ゼロである。
もはや、こうなると、どうしようもない。自分には判断することが
できないのだから。
ここに届く、「汝、今当に、ただ念佛申せ」の弥陀の本願。
親鸞におきては、ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしと
よきひとのおおせをかぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり。
歎異抄第二章のお言葉が、真に響く次第である。
そして、もはや疑う余地がないことを信知というと味わう。
不可思議であっても、生きている、今、ここに、
ただ念佛せざるを得なくなった、わたしの上に、本願は成就した。
本願と共に。南無阿弥陀仏