出よう、出よう、やめよう、やめようとしていたが、
どうやらそうではないらしい。
煩悩は煩悩のままでよい。断ぜずともよい。
要は執着しなければ、相手にしなければ問題ない。
湧くなら湧けばいい。思うなら思えばいい。
あぁ、また思っているな。なんまんだぶ。
あぁ、うれしやな。なんまんだぶ。
あぁ、どうしてこうなのか。なんまんだぶ。
諦かに見るというのは、止まらないものは止まらないと見、
常ならぬものを常ならぬと見ることだと思う。
止まぬものを止むものと認識し、常ならぬものを常と思う、これを
邪見驕慢という。
これで事足りる。出よう出ようと、離れよう離れようとしていたが、
離れずとも結構。今この身このままで、いくらでも離れることができる。
感動の涙でさえ仮であるということは、本当に寂しいけれど、
寂しいという思いも仮である。思いは思いのままに、ただ念佛を聞く。
本願とともに。南無阿弥陀佛
後述
結構とは書きながら、現実のわたしは、思いに囚われっぱなし。
それでも念佛申せば、帰るべき場所に何度でも帰る。
全休様は、それを平常心というと教えてくださっている。
何度でも、何度でもはありがたい。