むなしさとともに

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歎異抄聴記⑤所行能信

われわれのとなえる念仏もまた、所行におさまり、われわれがとなえたからからといって、やはり能行ではなく、たとえ、信以後にとなえたからといって、やはり所行である。能行というわけにはいかないのである。これは真宗学としては、もっとも古い真宗学である。(歎異抄聴記p62)

 

自分の仕事は主に経理をしていますが、財務ともう一つ別の仕事も担当しています。3月が決算なので、この時期が繁忙期です。

 

小さな会社で働いているので、決算業務だけに集中できるわけではなく、同時並行で期日のある複数の役割を果たす必要があります。

 

そういうわけで、平日はこのようなことを思索する時間がありません。

 

しかし、ふと念佛を申すことがあります。

 

やはり、所行なのであります。不可逆的に、所行です。これを如来回向とか諸仏称名と表現するのであろうと思います。

 

自分の心の乱れ、身の有様、現実の生活を省みたとき、無有出離之縁であります。常没常流転、助からぬ身であり、心であります。

 

つまり、仏の名を称える、仏の教えを聞信するような可能性はゼロなのです。

 

このゼロは無限にゼロのままであり、イチになることはありません。無限にゼロなのです。つまり、全く変わらない、変われないということ、仏法を受け入れ、身を通して実践することが全くできません。

 

どれだけ聞き、どれだけ実践しても無明、我執から生起した身を具足している以上、自分という思い、自己中心性は解決できないのであります。

 

ここに南無阿弥陀佛、と我汝とともに居る、心配しなくていい、そのまま念佛してこい、我が必ず汝を我が浄土に往生果遂せしめる、我が名を称えよ、と煩悩具足の心身を透過して今ここで、自分に念佛が聞こえてくださる。

 

法然聖人は声に尽きて決定往生のおもいをなすべし、と仰せになった。

 

親鸞聖人は専ら行に仕え、ただこの信を崇めよと仰った。

 

有縁の先生は常に仰る。今ここで聞こえてくださる一声一声がタスケルタスケルの仰せ、念佛は聞きもの、この南無阿弥陀佛に助けられるよりほかに道がないじゃないか、と。

 

お念佛は常に如来回向。この南無阿弥陀佛に助けられるより道なし、と所行の法を所行の法によって信じ能わせしめられる、このことを所行能信と仰るのではないだろうかと僕は思う。

 

自身の言葉で表現するならば、

 

お念佛を称えている気がしたが全くの見当違いだった。諸仏称名の歴史、釈尊のお勧め、阿弥陀佛の勅命によって、ようやく今のここに助からぬ身のまま必ず助けてくださる南無阿弥陀佛が聞こえてくださるじゃないか。聞こえて下さる常に今ここの南無阿弥陀佛のほかに如来もなく本願もなく、大悲もない。

 

念佛のおすがたまでとってくださる無限大悲に摂取され、迷いの凡夫のまま念佛往生せしめられさせて頂きます。

 

僕自身は僕の生存と娑婆世界に対して特に何も期待していません。生きなば生きれ、滅ぶなら滅べ、特に問題はありません。

 

南無阿弥陀