むなしさとともに

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ひたすら教化を受ける

仏法は広めるものではなくて、広まるもの。

 

それは、最も教化を受けた者から自然に広まるもの。

 

和田先生の言葉。

 

そもそも自分は伝えられる力がないのだ。

 

自分は教化を受けるもの、

どうか念佛してくれと呼びかけられているものなのだから、

それに相応してただ念佛申す。それしかないし、

それが如来の仰せを聞くということだと思う。

 

眠りこけても、訳のわからないことをしても念佛申す。

 

そこに帰る。何度でも。

 

浄土は生きているものに

なくてはならないものだと聞かせて頂いた。

 

あるかないかではなくて、どうしてもなければならないもの。

 

方向であり、本当に帰るべきところであり、本当に受け止めて下さるもの。

 

それを無量寿如来と申す。寿命無量、光明無量は誰のためのものぞ。

 

親鸞いちにんがためとおっしゃり、助からない私のための

御本願と聞き、ただ口になむあみだぶつと申す。そこに如来

決定往生の声を思いをなす。如来選択の称えやすくたもちやすい名号は

誰のためのものぞ。いつでもどこでもどうなっても決して逃さぬ如来

おるぞよ。

 

本願とともに。南無阿弥陀

迷いのただ中だ

自分の思いから一歩も出られない。

 

思いとは、自分の都合。

 

煩悩と有限と身は一体であると教えて頂く。

 

そして、この身が所属しているこの世界は穢土といわれる。

 

穢土とは、堪忍の土(世界)ともいわれる。

 

本当に迷っているのだなと思う。どうしても分別が抜けない。

相手をどうしても受け止めることができない。理解ができない。

心が通わない。届かない。

 

自分の心が落ち着かない。落ち着いたと思ったら、もう動いている。

 

ただ、迷いを迷いと知ることを信知と教わる。

自分は一切のことが分からないものだと知らされるまま、

助からぬものだということがそのままたすけられる。光明に摂取される。

 

どうしても出られないまま、変わらないまま、ただ念佛を聞く。

 

聞即信。聞こえること以外に信はない。音声佛を専ら聞く。

 

憑むべきは弥陀如来、依るべきは念佛一行。専ら念佛を聞く。

 

本願とともに。南無阿弥陀

法を握らず、歓びを握らず手放す

佛に値遇するということを、即得往生といい、

 

歓喜地に至るともいい、正定聚に住するともいう。

 

歓喜地とは、菩薩が退転の位、すなわち、十信、十住、十行、十廻向という

 

境涯を超えて、初めて、不退の位に達すると大いなる歓びが起こる、と

 

聞いています。

 

初めて真実に触れた、ということは確かに驚きであり、大きな歓びです。

 

しかし、それを握ってはいけない。握ると我執が法執に変わる。

 

見下す、驕慢心という心に陥る。

 

座談会でお話を聞くと、よく分かる。自分の心の動きが。

 

自分で握ってはいけない、ときばっても、だめで。

 

これを手放せしむるのが、智慧の念佛。

 

自分も気をつけなければならないが、よく握って手放さないような人が

 

多々あるように思う。法に執着している。法によって、善悪、自是他非を

 

行っている。自分はこれも分別だと思う。

 

藤谷先生は、これを注意しておられた。

 

出遇っても凡夫の手垢がつく。ここに苦しんでいる人が沢山いる、と。

 

念佛は無為自然。徐々に身に深まっていく。

 

なるようになれ 風にふかれるままに 思うままに ただ念佛を聞く

念佛できなくとも 本願を憶念し 仰せに還る 何度でも 何度でも

 

本願とともに。南無阿弥陀