むなしさとともに

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本願に出遇うまで⑤

5.出会い

 

自分にとっては、あの出会いがあったから今がある、

そう云える出会いがいくつかある。本当に大切な出会い。

 

真宗とのご縁を頂いた出会いもその一つであった。

今あの人は何をしているか、存じ上げないが、真宗の教え、

親鸞聖人の言葉との最初の出遇いがその人を起点にしていることは

間違いがない。だから、その一点において深く感謝している。

 

また宗教的原風景があるとすれば、

それは祖父と一緒にお地蔵さんに灯りをともしにいったことだと思う。

佛縁の最初の縁だったかもしれない。

 

夕暮れに二人で橋を渡って、お地蔵さんのところへ連れて行ってもらった。

祖父と沢山会話した思い出はないけれど、本当に大切にしてもらったと感じる。

今は祖父のことを地蔵菩薩の化身だったと思っている。

言葉に出さなくても、佛法を教えてもらった、心に深く刻まれたのだと思う。

 

幾ら物を重ねても豊かにはなれない。物は互いに分け与えるものである。

金は絶対ではない。大切なものはこれではない。

 

一言もこんなことを教えられなかったけれど、

身を通して教わっていたのだなと今振り返って、改めてそう感じた。

 

ただ自分自身にはまことを求める心が全くなく、

専ら自分の都合を貪る心しかない、浅ましい身であるということは

事実であり、常にここが汝の居場所であると本願によって戻される。

 

繰り返し、繰り返し。波が絶え間なく繰り返すように。

そこには悲しみが伴う。そして、すぐに忘れていく。

本願に出遇うまで④

4.失敗

 

自分は主体的活発的なものではないため、

こうなりたい、という意欲や夢が一つもなかった。

流されて、あるいは火がついてからでないと腰を上げない、そういう子どもだった。

 

そういうことで、受験に関しても、

具体的に志をもって取り組むということができなかった。

推薦入試を受けて、それに失敗し、失敗や恥に対する憎しみを

もってその都度かたをつけてきた、そういう有様であった。

 

今思うと、ゆがんでいると思うが、

自分はこうするしか前に進む方法がなかったのだと思う。

全く意味が分からないのだから。

 

なぜそうしなければならないのか。どんな意味があるのか。

 

誰も教えてくれないし、自分自身そういう本質的な問いにさえ気がつけなかった。

 

志を持たない、ということは具体的実践が伴わない、ということ。

つまりインプットしても、それを反復しなければ、身につかないのである。

 

学校で学習しても、それを復習し反復しなければ、右から左で抜けてしまう。

 

こういうことを繰り返し、そして、明確な目的意識がないまま大学へ入った。

 

振り返ると、やはり明確な意思、方向がないと、具体的実践につながらない、

あるいは発心してもそれが挫折頓挫してしまう、こういう歩みであった。

 

このことを退転退屈と仏教では言うと聞いている。

 

諸行無常、退転退屈。ひとにとって、深刻な問題だと感じる。

 

そして、自分自身が根本的に一切に無知であること。

 

自分の存在の意味、理由、他者との関係。

これら一切を貫く意味を知らず、

善悪も知らず、その都度その都度生を貪り、死を憎む。

これがわたしのありようだったし、今も変わらない。

 

もし違いがあるとすれば、そういう助からない者が自分である、

ということを知らされていることだろう。それ以外全く違いはない。

 

それを知るか知らないか、ここが全く違う結果をもたらすことになる。

 

これを如来の智慧という。念佛の信心という。信知という。

 

しかし、これを握ってはいけない。これは手放すものである。

 

これを成就せしむるものが、如来の本願力、選択本願の念佛という。

本願に出遇うまで③

今に至るまでを思い起こす。思えば、色々あったのかなと思う。

 

 

3.決定的な欠落(存在の意味が分からないということ)

 

他人の気持ち、立場になって考えることが今以上にできなかった。

想像力がない、否、他人に関心がなかったのだと思う。

同時に自分が何をすればよいのかも分からなかったのだと思う。

流行のマンガに憧れ部活も楽しかった。しかしスタメンにはなれなかった。

補欠であった。

 

今思うと当然なのだ。全体の動きが見えない、

視野の狭いものが活躍できるわけがない。

チームの目的は『勝利すること』であるのに、

自分はただ自己顕示欲を満たしたいがためだけだったのだから。

そのことさえ気がつかずにいた3年間だった。

 

しかし運動のおかげで体力はついた。駅伝に選ばれたりはしたが、

強い意欲も持たず、やはり中途半端であった。

 

志を持たない行動はやがて朽ち果ててしまう。

これは今後も今も味わう事実である。

 

物事の意味がわからない、理由がわからない。

今思うと、これほど理不尽なことはない。

いつの間にか学校へ行き、授業を受ける。進学する。選択を迫られる。

 

これは何のためだ?どんな意味があるのだ?意味が全くわからない。

 

そして誰も答えてくれないのである。大人たちは考えることをやめたのだ。

答えが見つからないから。みなやめてしまったのである。

そして、生きるためにただ生きている。

 

このこと明らかにするのが、本願念佛の教えである。

しかし、偏によきひとに出遇うか否かによって、全く異なる結果と

なってしまう現実に注意したい。しかし、よきひとは唯一ではなく、諸である。

今もなお、沢山の先生が本願念佛を教えてくださっている。

 

人と生まれて。今ここにいるという現実。

 

自分自身に生まれざるを得なかった因があった。

それに決着をつけるために、人間として生を受けた。今はこう思っている。

 

念佛を申す身に目覚める、念佛に出遇う、如来に遇う、本願に遇う。

 

言葉は違えど、その本質は一つ。大無量寿経にいわく、

生死勤苦の元を抜かれんがため、であった。

法蔵比丘の眼目、本願の目的はただこの一点にある。

 

根元を断てば枝葉は自然に枯れていく。清沢先生のお言葉にあった。

 

根元とは、見惑、枝葉とは修惑である。

 

このこと一つのために生きねばならなかった。忍ばねばならなかった。

このことが明確になったのは、今から1年半前のことである。

 

遠く宿縁を慶べ、このお言葉は本願に出遇ったことを通して、すべて

通らねばならなかったことであったと述懐するものである。

 

では、生死勤苦の元が断たれるのははいつだ。

 

今だ。ここで、だ。

 

生きている今。往生は今始まる。

始まった往生は必ず遂げられる。

止むことがない。歩み続ける。如来の誓願ゆえに。寿命無量、光明無量に

裏づけされているが故に。