むなしさとともに

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本願に信頼されている

信心で助かるのでもない。

 

念佛で助かるのでもない。

 

乗彼願力。お前を助けずばおかん。必ず助ける、という

 

如来の本願力、法蔵比丘の誓願で往生を遂げさせて頂くばかり。

 

わが身わが心、この相対有限の世界に自分をまかさない。さしおく。

 

助けずばおかん、必ず往生させるという如来の本願力にすべて託す。ままよの心。

 

その一念に、念佛申さんと思い立つ心が起こる。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

追記 如来衆生を信頼している。条件をつけずに

 

ただ信じている。その御心に助けられる。

事実と真実は違う

最近感じることがある。

 

それは、人は事実に支えられているということである。

 

事実とは、物質・精神両面において、様々な形をとって関わっている。

 

例えば、富、地位、家族、友、健康。

 

確かに今現在感じうる事実だといえる。

 

しかし、親鸞聖人は真・仮・偽と分けられる。

 

自分が感じている事実は、『仮』である。因縁和合して、仮に存在しているもの。

 

故に、縁が尽きれば和合は消えていってしまう。うつろう。過ぎ去る。離れる。

 

偽は、僕にとってはどっちでもいい。価値のないもの。相手にする必要のないこと。

 

真は、何時でも何処でも誰でも貫く真実、真如のことである。

 

仮を真と邪見し、我が身我が心を憑むゆえに、衆生は苦を受ける。

ずっとそばにいてほしい。ずっと今が続く。そう信じる前に信じている。

故に、それが退転したとき、敗壊したとき、衆生は苦を感じざるを得ない。

 

如実知見とは、ありのまま、そのままを受け入れる、正見することと頂く。

 

真に触れたとしても、仮を真と認識する顛倒から逃れることはできない。

 

顛倒を顛倒と知ることを、如実知見と申す。

 

本願とともに。南無佛

修道、聞思、知進守退 追記あり

安田理深先生の本にご縁があった。

 

師の講義録に、このような意味のことが書いてあった。

 

見惑は強いが、断たれる時は一瞬である。

 

修惑は弱いが、続いていく。そして我執の奥に法執がある。

 

蓮の花の茎は、ポキっと折れるが、筋はなかなか切れない、ことに喩えておられた。

 

今の自分の問題は、この修惑の問題である。そして法執である。

 

そして、このようにも書いてあった。

 

見道を繰り返す、反復する。これが修道である、と。

 

往生とは修行である。曽我量深先生の本に書いてあった。

 

心だけを重んじてもダメ。身だけを重んじてもダメ。

身を通じて、心を練る。さしおかずに、そのまま凝視する。そして因を尋ねる。

自分の言葉で表現するならば、こう云える。

 

信の一念を何度も反復し、信を純化する。

信の純化と柔軟心の成就。これは藤谷秀道先生の言葉。

 

聞思、知進守退という言葉の響き、これは親鸞聖人の言葉。

 

言葉の響きは同じ、すべてを貫いているものがある。しかし、

今はまだその答えはわからない。それをどこまでも、深め、

どこまでも尋ねていきたい。これを教えて下さる方が本当に少ない。

 

学者や信者は居ても、行者がほとんどいない。これが原因だと思う。

 

行者とは臨終の一念まで、修惑と向き合っていく者だと思う。

そして、念佛を申し、大悲を仰ぐ者である。

 

暫く、更新のペースを落として、この問題に向き合っていこうと

思います。言葉を練っていこうと思います。

 

憑むべきは法性のまこと。依るべきは念佛一行。

これは決して変わりませぬ。

 

弥陀如来の前に、法性法身がある。

それを『法性のまこと』と藤谷先生は仰いました。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

 

 2020.02.10追記


このような記事を見て下さる方が


ましますこと、有り難く存じます。


恐らく、道は着いたけれど、これから、


何をすればいいのか、戸惑いを持つ方が


見て下さるのでは、と感じます。


結論は、やはり、僕らはこの身が終わる


まで、凡夫であるぞ、との親鸞聖人の


仰せを繰り返し聞くことだと思います。


信心決定したとしても、今、ここに居る


自分にはまだ、迷いの身が現存している


でしょう。僕もそう。決して迷いの身か


ら離れることができない。


しかし、それは、自分だけではなくて、


皆が抱える問題であったのか、という、


更なる転換があります。


藤谷秀道先生が、七地沈空の難と


言い表されたことは、ここの転換の前に


停滞があることを仰ったのではと


感じます。


空を悟ると菩薩は、前にも後ろにも


進めなくなるそうです。


しかし、この人は見失っているのであり


ます。衆生のことを。


ここは、専ら善知識の教えを聞くこと、


念佛を保ちつつ、現実に仏法を尋ねる


こと、これを繰り返してようやく、


あぁ、まことの大悲であったかと


更に落ち着く世界がある、そういう


気が致します。


そして、もはや、心境にも、体験にも


すがる必要もなく、今、ここに存在する


助からない自分に、南無阿弥陀佛と


大悲の仰せがかかっており、念佛聞かし


められるばかりで十分なのであります。


さぁ、共に尋ねてまいりましょう。


南無不可思議光如来