最近感じることがある。
それは、人は事実に支えられているということである。
事実とは、物質・精神両面において、様々な形をとって関わっている。
例えば、富、地位、家族、友、健康。
確かに今現在感じうる事実だといえる。
しかし、親鸞聖人は真・仮・偽と分けられる。
自分が感じている事実は、『仮』である。因縁和合して、仮に存在しているもの。
故に、縁が尽きれば和合は消えていってしまう。うつろう。過ぎ去る。離れる。
偽は、僕にとってはどっちでもいい。価値のないもの。相手にする必要のないこと。
真は、何時でも何処でも誰でも貫く真実、真如のことである。
仮を真と邪見し、我が身我が心を憑むゆえに、衆生は苦を受ける。
ずっとそばにいてほしい。ずっと今が続く。そう信じる前に信じている。
故に、それが退転したとき、敗壊したとき、衆生は苦を感じざるを得ない。
如実知見とは、ありのまま、そのままを受け入れる、正見することと頂く。
真に触れたとしても、仮を真と認識する顛倒から逃れることはできない。
顛倒を顛倒と知ることを、如実知見と申す。
本願とともに。南無佛