むなしさとともに

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念佛とともに

死にたくはないが、どうしても生きねばならない理由はない。

難儀は嫌だが、それは避けられない。自分のこれまでがもたらしたものだから。

 

宿業や一生造悪、極重悪人という言葉は、誰かに用いてよい言葉ではない。

 

自分が『自分自身』にしか、用いることを許されない言葉である。

 

決して他者に言う言葉ではない。

 

この身には、限りがある。しかし、遇うべきものに今遇うことを得た。

 

だから、果てるなら果てよ。苦しみ、もがかざるを得ないなら、

 

それも引き受けよう。これが最後生なのだから。

 

嬉しかろうがなむあみだぶつ。悲しかろうがなむあみだぶつ。

 

なむあみだぶつをただ称え、ただ聞く。それはすがたかたちなき大悲が

 

あえて形をあらわしたすがた。それを称え聞くのは大悲にふれること。

 

南無阿弥陀佛は変わらない。

 

念佛を申す身に仕上げられたことがもったいない。

手が合わさるのが不思議だ。念佛を申す心など微塵もないが、合掌し、

歩くときも、眠るときも、洗濯を干すときも、風呂に入るときも、

ただ念佛を聞く。それ以外に何もいらない。十分すぎるほど与えられている。

 

往生一定もわが思い。往生不定もわが思い。わが思いに用事なし。

ただ念佛を聞く。

 

唯信仏語 決定依行(愚禿鈔

応信如来如実言(正信偈

 

南無阿弥陀佛 

 

無明

どんな人も、その人を精一杯生きていると思っている。

 

あるいは、できることなら、互いに傷つけあわないで、尊重し、生きたいと

 

思っていると思う。

 

でも、それが何一つ成就しない。

 

成就するとは、その人という存在そのもの、実存という言葉でしか

 

表すことができないような厳粛な事実を、根本的に支える大地、

 

地に足がつく、これでわが命は事足りたというような出遇いだと思う。

 

一切が間に合わない。

 

しかし、人は一生懸命生きている。

 

なぜそんなことになるのか?

 

根本的な無知を抱えているからである。

無知とは、方向を知らない。存在の意味を知らない。

自分が何をすべきか、何のために存在しているか分からない。

だから、自分が思うものを『よし』とし、その方向に向かっている。

 

『その方向で良いのか?』『汝の『よし』の根拠は何だ?』という問いかけ。

これが宗教心であると聞く。

 

今、ここで自分は自分を生きている、

と言い切れる人はどのくらいいるのだろうか?

 

少なくても親鸞という人は、もがきながら、苦しみながら、本願念佛を

 

通して、自分に遇われ続けた方だと思う。

 

救いとは、方向が定まることである。

迷うことを引き受けることであり、

役立たずを引き受けることであり、愚者になり続ける、そういう身に定まる

ことである。

 

役に立つ人は、決して忘れないでほしい。

役に立たない人がいるから、役に立てるのだと。

 

ひとは独りでは存在ができない。必ず関係性の中で、自分を生きている。

 

そのことを忘れていた。しかし、やっと思い出したのかもしれない。

 

ただし思いは思い。そのままに、ただ念佛を申す。この一声に出遇い続けていく。

 

無明に対し、念佛は智慧である。念佛こそ形なき法性の声である。

 

南無阿弥陀

 

 

本願は大地なり

一切が本当の支えにならない。本当に悲しみと痛みを感じる。

 

立場、状況によって、ひっくり返ってしまう。

 

また正しいと思うことが、本当に正しいのかどうかわからない。

 

それでも、するしかない。衆生は業によって流転していると感じた。

 

選択本願念佛は唯一の大地である。決して崩れることがない。

 

寿命無量、光明無量の大地。

 

 

南無阿弥陀佛は変わらない。

 

1000年経っても、2000年経っても、決して変わらない。

 

まだ生きておられる中で、

最も尊敬する師のお言葉を何度も思い起こしている。

 

先生は念佛の行者である。実践し、本願念佛に支えられ、本願念佛とともに

生きておられる。だから、縁がある限り、この先生から聞いていこうと

思っている。よき師に遇い難くして、今遇うことを得た。

 

この一声がすべてである。唯一無二であり、畢竟依である。

このことを摂取不捨と如来は仰る。摂取不捨の真言。超世稀有の正法。

 

仏法聞き難し、今、すでに聞く。真宗遇い難し。

 

何も要らない。汝はわが名を称えるばかりでよい。一切は弥陀が始末する。

汝を決して捨てない。わが名を称えよ、この仰せが南無阿弥陀佛である。

 

 

南無阿弥陀