むなしさとともに

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実際に念佛するということ

仏、阿難に告げたまわく、「汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり」観無量寿経 流通文より。

 

これは、仏が阿難尊者にだけ仰ることではない。流通文というのは、どうかこのことは必ず後世に伝えてほしいという意がこもっておられる。

 

すなわち、具体的にこの自分にめがけて、汝常に念佛せよ、と仰って下さっている。

 

この仏の言葉に従い、自分は念佛を申すのであって、良いから念佛するとか、地獄に逝かないために念佛する等というわけでは無い。

 

仏が具体的に南無阿弥陀佛と称え、その一声を聞けよと勧めて下さる故に念佛を申す。

 

念佛を申さないということは、余裕があるのだ。自分は自分を受け止めることができると。助けは無用である、と。

 

もう自分のようなものには、人生に対しても、後生に対しても、何の余裕もないのであります。

 

ただやれることをするだけで、思い通りにはならないし、どうなるかもわからない。不安定が自分の偽らざる現実です。怖いのですね、どうなるかわからない世界に身を置いているのが。

 

我汝を必ず我が浄土に往生成仏せしめん、という仰せがあるのなら、それに助けられるよりほかに道有ること無しと決定しています。

 

この南無阿弥陀佛はあまねく一切を摂取せしめんがために大悲を込めて選択下さった名號であります。

 

称えさせ聞かせて下さる摂取不捨の大悲に助けられて、皆往生せんことを。

 

11月にZOOMで研修会の予定があります。最終決まり次第、簡単にお知らせ致します。会の維持費のために有料になりますので、予めご了承下さい。

 

僕も少しお話しさせて頂く予定です。

 

南無阿弥陀

 

不安がなくなるのではない。

不安な者に汝不安なる者よ、と自覚せしめて不安を超えせしめる。縦の仏道に対して、横超、他力とは仏様の智慧の回向であります。

静寂

朝の静けさが好きだ。

 

動いていないというか、動く前の静けさ。

 

動き終わった後の静けさ。

 

音も無く、少しずつ明るくなっていく。

 

涅槃寂静という言葉の響き。美しい言葉。

 

静けさから動きに変わっても、

なお失われない静けさというものがある。

 

原点といっても差し支えないと思う。

 

原点とは、出発点であるが、迷ったら立ち返る所でもあり、最後に帰る処でもある。

 

少し涼しくなってきましたね。

 

南無阿弥陀

どうして聞法に行くのか

聞かねばならない、助からぬ身を離れることがどうしてもできないからだ。

 

どうやっても、この心身の影響を受けざるを得ない。

 

この身は無明住地から生起しているので、余すところなく円満に煩悩に染まっている。

 

しかし、だからこそ、汝を助けんという念佛の大悲が、今ここに常にかけられている。

南無阿弥陀佛とは、助からない者を必ず助けるという誓いである。

 

故にある意味では、南無阿弥陀佛ひとつが憑みであり、他の一切では間に合わないのが、この自分なのである。

 

助からない者と自覚せしめられたことが、実は助けられたことを意味する。

 

深信とは、言い訳が一切できないこと。ここには反論の余地はない。即ち決定であります。

 

南無阿弥陀