むなしさとともに

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一刹那で終わり、一刹那で始まる

12月の記事を書かないままに年が明けてしまいました。

 

本年も宜しくお願いいたします。

 

自分は平日の大半を仕事に従事しているのでそこで思ったことが(刹那)ということです。

 

年末で退職した人が居ました。

 

また去年は20年以上勤めておられた方も複数退職されていきました。

 

月が変われば、在職者が退職者になってしまう、あっけないことだと思うわけです。

 

自分は会社に残る側ですので、在職することを選択し、仕事していきます。

 

他方、退職された方々は離れることを選んだ。

 

そして、たった一日で別れていくのであり、一日は一分一秒の連続であり、23:59:59から0:00:00に至る一秒で決する。

 

これは一体なんだろうと思います。

 

結局、一秒は一念、一念は一刹那に縮まるわで、一刹那で決する、分かれていく。

 

【迷いも一思いから始まった】

 

こういう言葉を聞いたことがあるのですが、(魔が差す)ということも、魔が忽然と意識に生起し、行動に移してしまうのかもしれません。

 

意業がどうやって身業に連関するのか、唯識を十分理解できていないのでわかりませんが、

 

イドと表現されるような無意識、或いは身と一体化しているような渇愛、生存本能はこうしてブログを書くような日常の意識よりも強固であると思いますし、渇愛、生存本能はどうしようもないとも思っています。

 

これらは意識で抑制できるようなやわなものではない。

 

そして、これらも実は刹那の迷いから始まったのだろうかとすると、迷いは瞬間であり、連続してきたもののように感じます。

 

自分は今こうして迷っている。今の迷いはずーっと迷ってきた歴史の上にあるのだろうな。

 

凡夫は迷いの生存であり、六道の一つに配置されています。

 

悟りや目覚めといっても、迷いがなくなることを指すのではなく、迷いを迷いと知ることを悟りといい、目覚めと表現するのではないかと、考えています。

 

自分は今、ここで、確実に迷っている。

 

これは迷いから生じない気づきであり、これは智慧、光明、慈悲によって照らされたところにおける気づきである。

 

迷いを憎むのではなく、迷いを迷いと受け取る、受け取りつつ、徹底的に迷いを知らしめるはたらきを悟りの光、浄土の光という。

 

去年は自部署の仕事を落ち着かせる時間だったのですが、今年は他部署に関わっていく時間になる可能性があります。

 

なので、このブログの更新頻度は去年並みになるかと思いますが、引き続きお付き合い頂けると幸いです。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

なぜ枝を切り落とすのか

今日は立冬とのこと、月日は百代の過客とは本当ですね。

 

でも、今年はとても忙しいので一年が長く感じます。

 

今回はタイトルについて、考えを述べます。

 

自分が勤める会社の敷地には一本の木があり、多くの枝葉があります。

 

枝には紅葉しつつある葉がついています。

 

風が吹くと、毎日たくさんの葉が道に落ちます。

 

葉は基本的に、掃除当番が朝、掃き掃除することになっていますが、昼過ぎには既に葉が落ちています。

 

この頃、空いた時間を使って、枝を切り落とし、夕方に掃き掃除をしています。

 

自分が所属する部署は総務も司りますので、わりと何でも対応する必要があり、本業だけやっておけばいいという訳ではありません。

 

中小企業に務めるとはそういうことです。

 

さて、なぜ枝を切り落とすか?

 

それは、掃除当番の負担を軽くするためでもあり、近所への配慮でもあり、自分の祈りでもあります。

 

 

祈りとは行です。行とはすがたです。

 

 

心はかたちなきものなので、何らかのすがたを取らざるを得ません。どれだけ思っていてもかたちがなければ、相手へ届きません。

 

ただ、届くかどうかは、相手の感受性に依ります。こちらでどうにかなることではありません。

 

どうせ届かないだろう、と言い訳にして落ち葉に気づかないふりをするのではなく、関わっていく。はたらきかけていく。

 

届くか届かないかは自分の範疇ではない。自分はとにかく行じていく。

 

問題に当事するということはこういうことだと思います。

 

先週から70リットルのゴミ袋3袋分の枝を切り落としました。あと2袋くらいかな。

 

南無阿弥陀

 

追伸

このブログを始めてから8年が経過しました。2015年11月1日からのはずなのです。ペースは落ちてきましたが、念願は人格を決定す、継続は力なりということで引き続き宜しくお願い致します。

 

 

座標を獲るということ(所在)

時間が経つのは早いですね。今月はこの記事の投稿だけになりそうです。

 

 

 

今回は、所在について考察します。

 

 

まず結論を。

 

(ここは娑婆なので、何処にも居場所はない。あえて自らの座標があるとすれば互いの自身のみである)と考えます。

 

 

むなしさを(所在)という側面から考える場合、

 

身の置き所がない。

 

何処にも自分の居場所がない。

 

安心して居れる場所がない。

 

安心して居れる場所だと思っていたが、安住の場所ではなかった。

 

 

こういう言葉で言い表せるのではないかと思います。

 

さて、自分の居場所とはいったい何なのでしょうか。

 

繰り返しになりますが、人間である以上、孤独は避けられないと思うのです。

 

身が違うため、互いに住む世界、見える世界が異なるので、決して分かり合うことはない。

 

つまり、自分のことを本当にわかってくれる者など居ないのです。また、翻せば、自分も真に誰かのことをわかってあげることかできないといえます。

 

つまり、孤独は避けられない。

 

場所とは、誰かが居てくれるものです。

 

自分を待ってくれている人が居るから、帰ることができる。

 

さて、本当の意味で自分を待ち続けて下さる方がいるのでしょうか。

 

人間であるということは、常に限界を抱えています。金銭的にも、精神的にも、肉体的にも、できること、許容できることに限度がある。

 

仮に親、兄妹であっても、許容値を超える事象として、自分が寄りかかったなら、見捨てられるのです。重荷を見捨てなければ、彼らが潰れてしまう、と言い換えてもよいです。

 

つまり、お互いには確実に限度、限界があるのであります。

 

つまり、人間が人間を助ける、真の意味で救うことは不可能だと考えます。

 

本当に行き詰まったことがなければ、この残酷さを理解することは難しいと思います。

 

身を通したことは忘れたくても忘れられない。

 

自分にとって、このことは譲ることはできぬことです。

 

つまり、畢竟、自分にとって安心して居れる場所などないのです。

 

では、真宗でいう、正定聚不退転という言葉における、所在とはないのか? 

 

否、この身が所在です。ここしか自分の所在などないのです。そして、こここそが、如来と邂逅を果たす大切な場所なのです。

 

つまり、機といいます。

 

本願の機ともいわれます。

 

煩悩具足の凡夫とは、機、すなわち、自分の座標を指します。

 

座標において、自分が定められ、同時に、如来まします、大悲ましますということが体解せしめられると感じます。

 

この身は滅んでいく。白髪も少し増えてきました。確実に老いています。

 

しかし、南無阿弥陀佛は滅びない。必ず涅槃に至らしめて下さる。これを必至滅度と申します。

 

即ち、佛のさとりはひらけない故に、苦悩は死ぬまでやまないけれども、必ず浄土に至らしめて下さることは、確実であり、その名告りが南無阿弥陀佛。

 

南無阿弥陀佛といっても、今ここに、この身に称えさせられ、聞こえて下さるところのお念佛のほかになし。

 

一声一声が大悲。

 

この大悲に助けられて、必ず浄土に至らしめられる。そのことが決定している。

 

仏法も信心もない。あるのは煩悩ばかりだ。

しかし、無礙の光明は煩悩を障りとしない。そのまま貫き、徹照して下さる。

 

この南無阿弥陀佛に助けられて往生せしめられるばかりで、ほかになにもない。

 

この煩悩具足の凡夫の身のほかに、自分の所在などないと思うことであります。

 

南無阿弥陀

 

阿弥陀佛、すなわち、法がぼくらを待っている。このことに気づくか、気づかぬかが人生における一大事であります。