むなしさとともに

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宗教的直覚

結局は、いちにんいちにんが、

 

直接本願に遇うか、遇わないか、直接経験でしかないと聞かせて頂きます。

 

私には、他の方の心がわかりません。

でも、きっと他の方には私の心はわからないと思います。

 

よって、他の人が自分以外の方の信仰を批判したり、

あなたは信心が足りないとか、ご縁が薄いだとかいうことは、

原理的に不可能だと信じます。

 

これは仏の立場でしか使えない言葉だと信じます。

 

そのいちにんの個人的な自覚において、自分から自由になり、

本願に遇えたと感じることを信心決定というのだと思います。

 

 2016.1.11追記 

気をつけなければならないのは、その自覚直覚において、

阿弥陀さんへの感謝』があるかどうかだと思います。

 

わたしがよろこべるようになった、

涙が出るとか感動したとか、それは全く関係がなくて、

偏に阿弥陀さんへの報恩感謝があるかどうか、

これを我が身に、常に問い続ける必要があると味わいます。

主体は常に阿弥陀さんであり、わたしではありません。

 

 2016.2.09追記 

自覚に関連して、鈴木大拙先生の記事を更新しました。禅を通して、到達された先生の心境は、浄土真宗に深く通じるものがあると味わいます。そして、結局、知識ではなく、学問ではなく、自分のわが身を通して、仏法を聞かせて頂かなければ間に合わない、ということだと感じます。誰かのこと、歴史のこと、そういう表面的ではなく、

自分自身の心に深く問われるものが、仏法であり、浄土真宗であると思います。