造悪無碍、という言葉を考える。
弥陀の本願を信受すれば、自分自身の疑情は破られる。
故に、その後は、何をしてもよい。ならば、悪をしなければ損だ。
こんな感じじゃないかと思う。
これは、違う。
凡夫、という言葉は、止むに止めぬわが身の現実に向き合う、悲しい響きがある。
自分自身は、せめて、少しでも、誰かのために、何かのために、
役に立てられれば、と思っている。全く無力であるけれど、
無力であるが故に、せめて、という思いもあるのだと思う。
全く他人の気持ちを理解できないが故に、せめて、少しでも、感じられればと
思う。
食べること一つにしてもそう。
食べずに済むなら、ほかの動植物の命を奪いたくない。
確かに食べることは楽しみではあるけれど、自分も誰かに殺されたくない。
ならば、ほかの命も同じである、と考えるのが自然ではないだろうか。
でも、どうしても食べなければ、命を保つことができない。
そして、命を奪うことに、さほど苦悩もしない。痛みの感受性も乏しい。
あるいは、すでに貪瞋煩悩という、深く暗く、形のない心が常に流れており、
わが身という縁、あるいは世間の縁と和合して、具体化して、煩い悩ます。
すでに原因が自分の中に内在している。自分の知らないうちに。
だから縁が来たら、何をしてしまうか検討がつかない。
造悪無碍というのは、人間のわがまま、エゴにすぎない。
弥陀の本願に遇ったなら、申し訳ない、浅ましい、悲しいという思いも
付随すると思う。
そして、それは、自然に、他人に負け、世間に負ける、そういう姿に
転換させられていく。
自己中心から、如来中心のあり方に。そこに念佛者の在り方が
教えられていると聞かせて頂く。
本願と共に。南無阿弥陀仏
追伸:金曜日に限らず、思うままにまた書いていこうと思います。
書くことで教えられること、たくさんあります。
もしよければ、またお越し下さい。何か思うことがあれば、
遠慮なく残してください。解決はできなくても、一緒に考えることは
できると思うのです。ご縁は不思議ですから、どこで何に繋がるか
わかりませんから、気軽に何でも書いてください。