仏教と聞くと、あるいは宗教と聞くと、どのような印象を抱くだろうか?
現世利益、加持祈祷。神様、仏様にお祈りする。無病息災を。
そんなものだと思っているとしたら、全くの見当違いである。
受け止められることではじめて自分を引き受けていく、
自分を生きていくという覚悟が起こる。
ずっと忌避してきた、逃げてきた自分を、今、やっと取り戻した。
自分を生きた、そう云える今を生きている。
このことを自在というのだと教わる。
念佛、本願に出遇う、ということはそういうことだ。
自分の思いが破られて、いのちに生きる。その歩みが今始まった。
信に死し、願に生きると曽我量深という先生が仰ったと聞く。
わたしの独りよがりの思いが常に破られて、いのちが新鮮な感動を
もってはたらきかける。
光明がわたしだけでなく、ともに在るもの一切を照らし、
いだいている。照らし続けている。受け止め続けている。それを大悲という。
これが真宗である。
ひとと生まれてしまった以上、
自分自身からどうやっても逃げることができない。
現実から目をそらさずに、凝視する。凝視し、苦悩し、絶望したところに、
初めて如来の声が聞こえる。
そのことを聞其名号 信心歓喜という。
ひとは、出遇うということが起こりうる存在である。
如来の教法がまします、今現在に生かさせていただいていることを
深く感謝します。
そういうことが起こることを、歴史が証明している。釈迦如来、
七高僧、名もなき念佛者の人生が本願念佛を証ししている。
そして、この先、辛く苦しく悲しくむなしい日々が必ず訪れるだろうし、
大切な人とも別れ、
やがて必ず死んでいかねばならぬけれど、我が宿業、わが煩悩を
本願によって燃やし尽くされる。これが最期だ。往生は必ず遂げられる。
後生どこへいくかは知らねども、われは、今ともにある方とともにいくのみ。
地獄一定、往生一定。
二つは相は違えども、その心は如来との値遇が根源である。
表裏一体、不一不二。
本願とともに。南無阿弥陀佛