むなしさとともに

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真宗とは深信自身に尽きるのではないだろうか?

土日に法座があり、ZOOMで参加させて頂きました。

 

まだ頭の中が整理できていないので、今自分が感じていることをまとめておこうと思います(先生のお言葉も含め)

 

我執を破ろうとする我執は最も深い我執である。

 

我執と考えた時は常に対象化せざる負えないため、我執を捕らえることは困難である(というかむしろできない)

 

孤独であること、と、孤独感は異質である。

 

孤独であることは存在の問題であり、存在として構造的に抱えている問題といえる。

 

孤独であることはなくならない、死ぬまで解決できない。ただし、孤独なるわれらという世界が【深信自身】から拓く。

 

※第一深信 決定深信自身 即是自利信心也(親鸞聖人 愚禿鈔 下)

 

【深信自身】は信の一念から始まる。

 

南無阿弥陀佛に出遇うということが自分に出遇うということ。

 

出遇い続けていくということが念佛往生である。

 

往生には始まりの時と遂げられる時があり、始まりと遂げられる時に至るまでの幅があるものである。

 

念佛のすがたにまで成って下さった大悲が今こここの身に南無阿弥陀佛と聞こえて下さるじゃないか。ほかに何か必要なものがあるか、否、この声で満足である。

 

果遂の誓いが殊に念佛の一行のところに強くかけられていて、必ず念佛の信心を衆生に発起させるということがあり、ここにも大悲が表れている。

 

自分が全くの凡夫であるということ、即ち、深信自身から、いしかわらつぶての如くなるわれらがひらかれていく。

 

具体的に南無阿弥陀佛と念佛を申しつつ聞く、念佛のいわれを聞き続けていくことこそ肝要。

 

こんなところでしょうか。

 

今回、改めて思ったのは、浄土真宗とは何か、それは深信自身なのだなということです。

 

曽我量深先生は(機の深信から法の深信がひらくのであって、眼目は機の深信である)という趣旨の言葉を残されているのを見たことがある。

 

何人も自分からは逃れられない。

 

自分はいったい誰なのか、何をしにこの世に出てきたのか?

 

こういう実存的問いからも逃れられないと思うのであります。

 

そして、この自分は苦悩を感じる者であり、モノではない、と。

 

苦悩を感じる者のことを凡夫というのだと思いますし、Vフランクルさんはホモパティエンスと表現されたと伺います。

 

ここのところは更に考えてみたいところです。

 

かいを開いて下さった方のおかげで、末席で聴聞させて頂くことができました。改めてお礼申し上げます。

 

南無阿弥陀