むなしさとともに

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視え方が変わりつつある

何か事象や現象を見るとします。

 

それ自体は特に何も変わらない、いつも同じように見えます。

 

しかし、視え方が変わるとその事象現象の意味合いや彩りが変わることがあると思うのです。

 

少し前からこういうことを感じることが増えてきたので、幾つか例えを書いてみたいと思います。

 

自分は庶務の仕事もしているので、給仕をします。特定の場所を毎日準備片付けをするのですが、

 

以前は、テーブルが汚れていたり、椅子が所定の位置に戻されていないのを見ると正直不快さを感じていました。なんでキレイに使えないのだろう、と思っていました。

 

この頃は、あー、今日も寛いでくれたのだな、好かったと感じます。

 

また井上尚弥さんのパンチを見るとします。

 

その一発の拳の背景に何千何万回のパンチを繰り返し、汗を流されてきた歴史を思います。ただの一発のパンチではない訳です。

 

バスケット選手のシュートも同じです。簡単にゴールに入るように見えても、その背景にその人の地道な鍛錬、反復、労苦、つまり流した汗があると思うのです。或いはその人を支える家族の存在もあるのでしょう。

 

つまり、事象現象には奥行きや背景があるということです。

 

夏に咲く花の種を蒔きまして、小さな芽が幾つか出ていて、平日は毎日見守っています。正直、今は雑草と変わらないすがたをしていますが、うまくいけば明るい花を咲かせてくれるはずです。

 

その時、僕がそのヒマワリを見る時の感じ方と他の方が見る時の感じは違うと思うのです。なぜなら僕は種の時から見ているからです。

 

事象現象は同じでも、その背景や奥行き、歴史に思いを馳せることができれば、深さを感じることができる。

 

生活を通して、南無阿弥陀佛から教わっていることです。

 

南無阿弥陀

 

場所に人が居ると思うのです。自分がその場所を快適に利用できるとしたら、その場所を見てくれている人が居るということです。

 

そのことに目が向いた時、自ずと場所に敬意を持つことができ、場所を保ってくれている人にも謝意が生まれると思うのです。

 

浄土は如来であり、如来は浄土であります。