むなしさとともに

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問題の変質(公共性について)

住居は少しずつ落ち着いてきたのですが、もう少し時がかかる見通しです。まだカーテンが買えていません。

 

さて、この頃考えていることをつらつらと書いてみます。

 

 

真宗大谷派に和田稠先生(わだしげし)という方がおられました。

 

自分は直接お会いしたことはないのですが、和田先生の本或いは法話をテープで拝聴して影響を受けています。

 

和田先生の言葉に、信心は個人性を超え、公共性を孕むという趣旨の言葉があります。

 

この公共性という概念は非常に大切なものであり、顕浄土真実教行証文類の言葉でいうと、恒沙の信というものがこれに当たると考えています。

 

恒沙とは通常は恒沙の諸仏、仏様方を指すのでしょうが、僕は恒沙という言葉に衆生を感じます。

 

三世十方の衆生。これは他者であり、自分を指す言葉であります。

 

つまり、迷いや流転、根本に無明が在るという問題は、自分自身に留まらない問題であり、総ての無明が滅びなければ自分も助からないと思うのです。

 

食べるもの、食べられるもの。

 

搾取するもの、搾取されるもの。

 

格闘家と観客。

 

枚挙にいとまがありませんが、僕らは関係性の中で生きており、このことを縁起といわれます。

 

縁起の中に生きている以上、海外の戦争の問題、経済格差の問題、貧困の問題、職場の問題、これらの問題と自分は無関係であるとは言えないと感じています。

 

なぜなら自分は社会や世界の一部として今ここに居るからです。

 

信心が起ころうが起こらまいが、社会の一部であることからは逃れられないので、これに対峙せざるを得ません。

 

自分の場合は、サラリーマンとして社会に向き合う。やれることを諦めずに進めていく。先生から教わった技術を反復し、習得する。

 

できる時は寄付させて頂いたり、他者に親切にさせて頂く。無理はしないし、他者を助けようとも思わないし、助けれるとも思わない。

 

人間は有限な存在だからできないことがあってよい。本当に世界のために働けるようになるのは、この命が終わってからだ。

 

信心は終わりではなく、始まりであり、往生浄土が始まる起点である。起点ではあるが、この起点は浄土から届いている起点なので、必ず浄土へ至る。

 

そして、信心は公共性の側面を持ち、往生を通して、問題が個人性から公共性へ転じられる。

 

個人性と公共性の際のことを、恐らく七地沈空の難という。

 

この難を抜けると無功用、即ち八地に入るという。

 

この難所は仏様方の後押しで抜ける、このことを菩薩の勧進という。

 

この問題は自分だけの問題ではなかったという転換が念佛聞法の先に在る。

 

今はこう思っています。

 

八地とは恐らくメタファーなのでしょうが、聖徳太子も注意されておられたようで、勝鬘経義疏という本の中に思索が遺されています。聖徳太子は仏法を体解された方であります。

 

南無阿弥陀