むなしさとともに

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思いますこと

コロナ禍の中で思うこと。コロナウィルスにかかることよりも、かかった後の自分に対する他者、世間の反応が怖い。

 

平素隠された本質が感染したことを縁に露出する。

 

本質がないわけではなくて、露出する縁が来ていないから他者に親切にできるだけで、いよいよ自分が、家族が危ない状況に達したとき、綺麗事は力を失う。

 

歎異抄第十三章

 

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし、この言葉を思い出す。

 

みな基本的にはいいひと、なのだ。大抵は恐らく。

 

しかし、いいひとが豹変しかねない業因を無意識のうちに蓄えていると、仏眼は捉えておられる。これは人間には分からないことだ。人間が把握しうる領域の外が分かる方でなければこんなことは言い当てられないはずだ。ここに二千年以上、経典が相続されてきた謂れがあるように感じる。

 

歴史が証しする。顕彰するというか。何か謂れがあるから、相続されるはずだ。人を感動せしめるような何かがなければ、人はそれを繰り返し表現しようとしないはずだ。

 

無意識、あるいは、身に覚えのない罪、自覚なき罪があると言い当てられたら、もう逃げ場がないのであります。

 

目は目そのものを映すことはできない。

 

経教はこれを喩うるに鏡の如し、と善導大師は仰られた。即ち鏡に照らし出されたところのすがたが、歪曲なき自身のすがた。

 

だからこそ、どうにもならないものを抱えた存在と見抜いた上で、どうにもならぬ汝よ、我が名を称えよ、必ず往生せしめん、という南無阿弥陀佛の大悲がまします。

 

どうにもならないものを必ず往生せしめて下さるおはたらきが本願であります。

 

帰去来、他郷には停まるべからず、本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。悲喜交わり流る。深く自ら度るに、釈迦仏の開悟に因らずは弥陀の名願いずれの時にか聞かん。仏の慈恩を荷いても実に報じ難し、と(顕浄土真実教行証文類 化身土巻 法事讃 善導大師の文をご引用)

 

この土を他郷と仰る。他郷かどうかは分からないが、寂しい場所だなと日々思っている。

 

一方でだからこそ、大悲に支えられていることを日々実感している。