我々には機の深信が大事である。万死に一生をかけて一歩前進する、これが本願念佛の道というものである。
一応信心決定しても、その信心が自覚の信になることが容易でない。親鸞聖人は法然上人にお遇いなされて一応お解りになったのであろう。
法然上人のお膝元にいる時に一応は解った。法然上人から聴聞したことが本当に身につくようになるには−長い年月を経て解るようになったことを親鸞聖人がお喜びになって自分の信心を述べられたのが、あの三願転入の御文である(親鸞の大地p233 津曲淳三 弥生書房)
正信偈にいわく、弥陀仏本願念佛 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯と。
信の一念が如何に相続せしめられていくか。
受持とは相続であろうと思う。
これを機の側で相続することはできない。常にこの信を握ろうとする故に。
握らぬことは不可である。握れば必ず分別に陥る。そうすると宗教以上に差別的になるものはないと思う。
つまり自分は助かった、以外の人はまだである、と。
こういう自身の在り方と対峙していくのが、信心決定以降の人生の意義であろうと思う。
生活が道場に変成せしめられる。目の前の人、苦手な人が忍耐を試してくれる。否が応でも向き合わざるを得ない。そうしなければ自分も相手も助からないからだ。
曽我先生の言葉のように、信心決定した後のことを自分の言葉で語って下さる僧侶はそう多くない。
こういう言葉を改めて目の当たりにすると、嬉しいというか、死ぬまでお育てに与るのだなとしみじみ有難く思う。
終わらない問い、どれだけ聞いても底のない大悲を与えられるということは、本当に頼もしいことだと思う。
南無阿弥陀佛の一声一声は如来の大行。本願を因とするはたらき。称えるような身でない。永遠に称えてこなかった自分のような者に称えさせて聞かせて信心を回向し往生せしめて下さるまでの無限なる大悲。
こういうことはこの5年の間のお育ての賜物であり、僕の力でなく、全くの他力であります。
往生の終結は成仏である、とも曽我先生は仰せられている。
信心を握り、他者を見下し、生存していることを受け止められないような存在が自分であり、そんなものだからこそ、我が名を称えよ、と仰せ下さる南無阿弥陀佛に幾度も幾度も立ち帰るのであり、これを後念相続といわれるのでありましょう。
南無阿弥陀佛