むなしさとともに

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念佛往生とは何を指すのか?

無量寿経に説かれる阿弥陀佛の本願のうち、第十八番目の本願について、法然聖人は王本願である、とされ、念佛往生の願であると仰せられた。

 

親鸞聖人は、更にこの本願は、信心まで回向して下さる本願であると顕らかにするために、更に、至心信楽の願と仰せられた。

 

自分が感じる真宗の特徴として、非常に行が弱いことである。この行とは、生活における求道を指す。このことは、信の一念の前後を問わない。

 

つまり、仏法を疑う人が非常に少ない、あるいは、ありがた屋が多い。また、歓喜地で歩みが止まり、信が差別性に覆われてしまう。

 

信心が定まったあとの生存に何の意味があるのか?これは非常に重要な事柄であると思うし、自分においても当初、意味がわからなかった。このあと、何を拠り所にすればよいのか見当がつかなかった。

 

自分が、非常に運が良かったのは、このところを教学に基づいて示唆下った先生とご縁ができたことであった。

 

この先生が、藤谷秀道という佛光寺派の講師の方でありました。先生は菩薩十地の階梯ということを通して、この身では仏様には決してなれないが、まだ明らかにしなければならないことがある、と教えて下さいました。

 

 

私は、先生と実際にお会いしたことはありません。先生がご往生を遂げられたのは、昭和58年、私は1歳の頃です。

 

菩薩の階梯ということを領解するためには、体解しか道はありません。即ち、自分の現実を通して自分の凡夫性を凝視し続けること、および、念佛を申しつつ、南無阿弥陀佛の大悲を聴聞を通じて聞かせて頂く。そして、少しずつ佛様に教化されていく生涯が開いていきます。言葉を絶する妙なる不可思議光のはたらきに遇うしかない。

 

これはメタファー、即ち譬喩的な表現であり、形である。形に囚われて、先生の伝えたかった佛のお心を迷失してはならない。だから、仏法は聞けよ、聞けよと言われるのでしょう。

 

この智慧のおはたらきの相続のことを、念佛往生というのだろう、と思っています。よって南無阿弥陀佛によって賜った信のはたらきで、いよいよ念佛申さざるを得なくなり、その智慧の光明によって、自身が決して助からぬ凡夫であったと知らされ続けて下さる。

 

南無阿弥陀佛によって、機の深信が更に掘り下げられていく。信とは常に初ごとであると聞いている。

 

これが摂取不捨の利益(りやく)の現実における具体的なおすがたであり、助かるまじき汝だからこそ、必ず浄土に往生遂げずばおかぬとの仰せが南無阿弥陀佛となりて、今ここでこの身この口に称えさせ、この耳に聞こえて下さる、この力強さを法の深信と感じるのであります。

 

念佛往生とは、まこと佛様の回向によって恵まれるものであると感じますし、それをもってしてもこの空しさは消えず、欲を貪り、訳のわからぬ生活を繰り返すしかない自分の現実は非常に情けなく、痛みを伴うものであります。

 

しかし、こんな僕を決して忘れてくださらぬ佛様が常に伴にまします。このことを知らしめられたことは、僕の人生において、至極の恵みでありました。そして、それは今も進行中であります。法とは生きたおはたらきであるからです。連続無窮でありましょう。

 

悲惨な生活でありますが、そこは信が生きているか死んでいるかを問われる勝負の場であろうと思うのです。だから、技術や知識を求め、大悲の恩に報いたいと思うのであります。故に歩みはまだ終わらない。

 

 

 

南無阿弥陀

 

信心とは、自分には微塵の菩提心がないと知らしめられることを指します。つまり、自分には菩提心が全くないのです。