むなしさとともに

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苦悩の起点 むなしさ

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むなしさ。

 

これが自分の苦悩の起点、出発点です。

 

物心ついた、記憶の始まりは幼稚園の頃です。

 

折り紙をみんなで折っていました。

 

僕は、チューリップしか折れないわけです。

 

なぜこのことが強く印象に残っているのか。

 

聴聞を通して考えたところ、行き着いたのが(意味の分からなさ)ということでした。

 

(意味の分からなさ)とは、特定のこと、特定の動作にとどまることではなく、生活全体の意味がわからない。

 

全く面白くもなく、手応えもない。なぜ折り紙を折らねばならない?何のために?わからない。

 

 

なぜ学校に通い、宿題をし、テストを受け、通信簿で評価されねばならないか。

 

全く意味がわからない。

 

子どもなので、言葉にすることができませんので、他者と上手くコミュニケーションが取れず、勉強もしないわけです。

 

自分で勉強しないので、成績も平均以下、ファミコンを与えられると、没頭する。

 

ゲームは楽しかったですね。一人で楽しめるので。

 

僕にとっての、むなしさの本質は(意味の分からなさ)であり、もう一つは(手応えのなさ)でした。

 

進学に伴う受験は嫌でも通らねばなりませんでした。なんやかんやで、一般的な進学を辿りました。

 

就職し、働く中で、それまで持っていた資格では力が及ばなくなったので、仕事をしつつ、夜間の専門学校に通い、上級の資格も取りました。実務も一通り経験しました。

 

しかし、転職し、別の場所へ行くと、全く通用しないわけです。

 

経理といっても、会社によって、システムが違いますし、分析も違う。扱う商材が違えば、原価計算の経路も違うわけです。

 

そして、努力する天才への遭遇で、心が折れるわけです。自分では太刀打ちできない、と。

 

これは自分の辿った道ですが、その本質は、手応えのなさ、であり、キリのなさでありました。

 

つまり、上には上があり、成就する、完全に求まった、充足ということが達成されない。

 

渇きが止まない、渇愛といわれるものの中で際限なく、流転し続けて行く。

 

十分でないかもしれませんが、現時点では、むなしさの中身をこのように考えています。

 

今も意味のわからなさと手応えのなさ、そして、際限のなさは変わりませんし、これらに押し潰されそうになります。

 

しかし、今はただ念佛を申す。念佛申しつつ、生活し続ける、聴聞させて頂く。

 

これだけで十分であり、意味があるとかないとか、メリットデメリットとか、仏法の中には入らぬのです。

 

真実という言葉の(実)の字は中身が詰まっているという意があると聞いております。

 

例えば、蔵があるとします。その中の空間に、芥子の実が四方八方のすべてにぎっしり埋まっています。そうすると、その中に、芥子の実以外の何かを入れたくても入らない。隙間がない、からです。余地がない。

 

仏法、南無阿弥陀佛とは実、われらを遍く照らす大悲の光明であります。

 

如来が仏法を展開する主体であり、われらは仏法が仏法のとおりはたらく客体であります。

 

主体は主体であり、客体は客体です。

 

明確に分かれる、分けられるという功徳が智慧のおはたらきの一分であります。

 

もう少し続けて、苦悩を考えます。

 

南無阿弥陀

 

和田稠先生は仰ったそうだ。

 

そのむなしさを信頼しなさい。

 

僕の言葉でいえば、

 

むなしさは自分が起こすものではなく、自分に生起してきたものであった。

 

むなしさは本願へ導いてくれた。