むなしさとともに

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テーマ:再び原点を掘り起こす

※本件はZOOM法座を開くにあたり、案内状に掲載したものです。

 

念佛申す中で、生活をしていますか?


念佛申しつつ、本願のいわれ、念佛にまで成って下さった大悲を聞きなさいと言われます。聴聞の場だけで聞法するのではなく、むしろ聴聞の場の外で気付かされることが多いように思います。


色々な場で聴聞すると、時に違和感を覚えることがあります。例えば、音がずれている状態の楽器で演奏しても曲にならない。楽器は演奏していれば、自然と緩み、弛み、音がずれる。よって、再び巻き直し、締め直すことで、正しい音が出るように調整する。これは繰り返し行われる動作でチューニング、調弦といわれます。つまり、互いに調弦が必要だと思うのです。


如来はこちらに何も期待していない。称我名号下至十声とは【ただ称えよの仰せ】であり、期待ではない。


結局自分を信頼し、如来を憑まない。如来よりも自分の方が高い処に在る。つまり、互いに自身の存在としての現実が何も見えていない。或いはすぐに忘れてしまう。


われらは煩悩を制して助かるのではない。煩悩から離れることがどうしてもできないと知らしめられ、助けられる。


光があるから長夜に在っても道が見える。光は、主体として客体に【見せしめること】ではたらく。


【再び原点を掘り起こす】

お互いは何のために仏法を聞いているのでしょうか?


原点は起点であり、終点でもある。迷ったら原点に帰ればいい。原点は不動であり、いつも、ここに帰れと待っている。


【みちのかい】は【原点を忘れぬサンガ】であってほしい。住岡夜晃先生や細川巌先生、あまたの善知識、懐かしい先輩方も【原点】に居られるだろうと思うからです。


法蔵菩薩の願心の出処】に居るのは一体誰なのだろうか。今ここに至り届き、われらに称えさせ聞かしめて下さる力は、そこを起点には湧きい出て下さっているのではないだろうか。


本願を必ず成就せしめんがために選択し、血と汗と涙を込めて仕上げて下さった真実の大行が、今ここに称えさせられ聞こえて下さる南無阿弥陀佛ではないかと思うのであります。


【この声を聞く】、ただ一つであります。なぜなら自分には念佛を申す心がないからです。