https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1489889341157511169?t=YjA-aj6Kq6C7zTwg5enVPA&s=19
ツイートしたことをもう少し掘り下げます。
年末以降、オミクロンの影響で有縁のお寺にもお参りできておりません。
法縁はZOOMが大半で、月に二度、読書会に参加させて頂いております。
その2回の読書会でさえも、参加を控えようかなと思う有様です。
気持ちが乗らないとき、落ち込むときもありますので。
日中は仕事が割と忙しく、手と頭を動かしているので、お念佛はほぼ申しませんし、仏法のことは全く考えません。
要は、仏法に縁を頂く前の状態に還りつつあると思うのです。
ある意味、その状態が本当にそのままということであり、聴聞しようがしまいが変わらないのが凡夫ということだろう、と思うのです。
親鸞という方の唯信鈔文意という書物の中の言葉に、
いしかわらつぶての如くなるわれら、というものがあります。
この言葉が胸に響きます。われらとは、われもまたということ、つまり他人事ではない。
自分事としてわれらという言葉を使っておられる、と思うのです。
距離が遠くない、極めて身近に感じる。
大地に足を下ろしている。
きっと涙されたこともあったろう。
月を見上げられたこともあったろう。
この南無阿弥陀佛を称えつつ、聞いておられたであろう。
凡夫地という本来在るべき処へ還る、
元に戻る、何度でも戻る。
念佛を申す、南無阿弥陀佛とは、帰れという声である。
格好をつけず、自分の言葉で大悲を表現し、生活の中で有縁のみなさんとともに身を置く。
このことは僕にとって、とても大切なことです。
南無阿弥陀佛