むなしさとともに

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少しずつ再開していきます

春の嵐というのでしょうか。

なかなか雨風が強く、外出にも一苦労でした。

 

一区切りがついたので、ぼつぼつブログを再開しようと思います。

 

この2ヶ月で、体調を崩したり、ほぼ聞法には行かずに過ごしていました。まぁTwitterは結構やってしまっていましたが。

 

自分は全くの在家であり、実家は真宗でもありません。曹洞宗らしい、という位宗教とは遠い所におりました。

 

地元は真宗の寺院はかなり少ないらしいのです。この何年かで知ったのですが。小学校の時に一番外でよく遊んだのはお墓でドロケ(泥棒と警察って知ってるのかな)をしていました。

 

実はそのお墓のある寺が真宗のお寺だったようで、南無阿弥陀仏と彫ってある墓石の前を何度も走り回っていたのであります。

 

こういうことを考えると、如来の骨折りを思います。ここまでにどういうお手回しがあったのだろうと。

 

信心とは信者に成ること、ではありません。

 

むしろ逆です。

 

全く無仏法の者であると知らされるのが信心の智慧と云われるものであり、念佛申す心など微塵もないのです。

 

一方で、現実の残酷さに疑問をいだきつつも、結局どうしたらいいのかもわからず、本当に差別を無くし、平等なる世界を実現したいとも思えないのであります。

 

力がない、というか。脆弱な存在だと自分でも思います。ただ、一偶を照らすというか、自分にできることはさせてもらおうと思い、技術を学び、生活の中で試しているところです。

 

だからこそ、そんな汝故に、わが名を称えよと南無阿弥陀佛と喚びづめに喚んで下さる、これを憶念という。

 

自分が憶念するのではなく、如来に憶念されているじゃないか、と。

 

主体が客体化され本願によって念佛せしめられる、一声の念佛でも十七願のおはたらきであろう、と。

 

こう思うのであります。

 

また本願念佛の大悲に耳を傾けてまいります。

 

 

 

南無阿弥陀